「序論 世界を考える道具をつくろう」(『文化人類学の思考法』、2019年)

序論では文化人類学がなにを目指している学問なのかが説明される。目を引いたのはこの箇所だ。

〔フィールドワークという身体的経験〕には、ある種のカルチャーショックをともなう身体経験を介して、既存のことば=概念がとらわれてきた世界認識を刷新したいという思いがある。(4頁) 

 概念によって私たちは作られている。「男」という概念は「男」というカテゴリーを作り出している。そうして作り出されたカテゴリーには規範が生まれる。「男らしさ」というものだ。それだけではない。「男」というカテゴリーは通常「女」というカテゴリーとの差異から捉えられる。両方のカテゴリーの間には頑然たる境界があるかのようにして、私たちの世界は作られ、私達自身もその世界認識によって自身を作り上げてきた。

街でみかける外国人について、「◯◯人は✕✕だ」と感じることがあるかもしれない。このとき同時に「✕✕ではない私たち」という自己イメージをつくりだし、維持しようとしている。(5頁) 

 この例にはぞっとした。出来の悪い学生を非難する時に、同時に私は「出来の悪くない私」という自己イメージをつくりだし、維持しようとしていたなんて!浅ましいな、と思う半面、差異なしにはなにごとも認識できないのだから、仕方ないじゃんとも思う。しかし、先に出した男女の例でいえば、男/女というスラッシュの入れ方、差異の作り方が本当に適切なのか?と問うていくことが文化人類学的な営為なのだろう。私は男性性というものが好きじゃないので、非難することが多いが、そうすることでポリコレ的に正しい私を演じているのかもしれない。情報とは差異をつくりだすものだと理解していたが、その差異がどう作り出した本人にも作用するのかは考えていなかった。難しい。

差異は、はじめからそこに「ある」ものではなく、自分たちとそうでない者たちの区別をつくりだす相互作用のなかで「つくられる」。文化人類学は、その差異を説明することの難しさ、危うさを認識したうえで、彼らと私たちとの間の関係について思考をめぐらせてきた。 (5頁)

 私にはまだ差異についての思考をめぐらせる道具立てが足りないことがわかった。この本を通じて、『文化人類学の思考法』を手に入れていきたい。

ピエール・バイヤール著, 大浦康介訳(2016)「Ⅰ-1 ぜんぜん読んだことのない本」(『読んでいない本について堂々と語る方法』)

ムジールの小説『特性のない男』に登場する図書館の司書は全部の本について識っている。それは、一冊として中身を読まずに、目録だけを読むという方法によってだった。

ムジールの司書の賢明さは、「全体の見晴らし」というその考えから来ている。私は彼が図書館について述べていることを教養一般に敷衍して考えてみたい。書物の中身に首を突っ込む者には教養を得る見込みはない。読書の意味すら疑問である。というのも、存在する本の数を考慮するなら、全体の見晴らしをとるか、それとも個々の本をとるかを選ばなければならないが、後者の場合は、いつまで経っても読書は終わらず、全体の掌握にはとうてい至らないからである。それはエネルギーの浪費でしかない。

ムジールの司書の賢明さは、まずは全体という概念の重視にあるが、それは真の教養とは網羅性をめざすもので、断片的な知識の集積に還元されるものではないということを示唆していると考えられる。この全体の探求は、さらに別の側面も持っている。それは、個々の書物に新たなまなざしを投げかけ、 その個別性を超えて、個々の書物が他の書物と取り結ぶ関係に関心を払う方向へとわれわれを導くのである。(30,1頁)

 最近、頭が回っていないせいでこの「全体の見晴らし」が頭の中に描けない。頭の中に地図を描きながら街を歩くのではなく、目の前の景色だけを頼りに歩いている。いや、歩けてすらいない。全体の見晴らしが手に入らないとどちらに向かっていいのか分からないのだ。立ち止まっている。全体を見渡す能力というのは頭のいい人にだけ与えられたものなのだと知った。

論文を書く行為の大半は、30本以上の論文を頭の中でミックスして調理して新しい文章を組み上げることに捧げられる。まさに全体の見晴らしを手に入れられないと30本の論文を適切な場所に並べてつなげることができない。個々の論文が他の論文と取り結ぶ関係が分からないと、自分の論文がどこへ行くのか方向づけることができない。これは非常に難しいことなのだと知った。

歩けないのだ。無理に歩き回っても道に迷うばかりでどこへも行けない。とりあえず一歩を踏み出せとはいうが、それが間違った道への一歩だったなら無駄でしかない。全体の見晴らしが必要なのだ。地図を手に入れずに旅に出るのは愚かだ。道草や寄り道は全体の見晴らしを知った上で、あえて違うことをするときにだけ特別な価値がある。全体への反逆だ。それは全体の見晴らしを既に持っていることを前提とした行為だ。

歩くには地図を手に入れるしかない。その地図は自分で描くしかない。描くためには頭が回ってくれないとどうしようもない。頭が回るには、と試行錯誤している。締切が近づいてくる。あと15日。焦っても仕方がない。ただじっと待つのだ。

このブログの最近の記事も、引用だけしかできなくて、その引用は自分の知識の中にどう位置づけられるのかをぱっと把握して新たに方向付けられた自分について書くことができなかった。頭の回転なのだ。こんなに見晴らしの悪い世界を生きている人も沢山いるのだろう。そりゃあ読書も勉強も楽しくないはずだ。本に書かれていることそれ単体には面白さはない。面白さは、それが私の「これまで」と絡み合って私を導くことからやってくるのだから。

はやく、回復してほしい。

小林康夫(2015)「2-1 皮膚の哲学をもとめて」(『君自身の哲学へ』)

自他の区別が今大きく揺らいでいる。(74頁) 

 私とその他の事物との境界は皮膚だ、というのは当たり前のような気がするが、この本を読むまであまりそうには思ってこなかった。誰かの肩に手のひらを載せるとき、触れているのは確かに皮膚だ。皮膚なのだけれども、そんな物質的なものではない、もっと精神的なものを感じていたのだろう。もっと揺らぎやすいなにかのような。

この節の導入ではアトピー性皮膚炎が取り上げられる。皮膚という場所で起こる免疫系の不全の例としてだ。免疫系とは身体の内部で自己と他者とを認識して自己をバランスさせるシステムだが、アトピー性皮膚炎では、その認識に間違いが起きて、自分自身を過度に攻撃してしまう。小林は、アトピーのような免疫系の不全がもっと精神的な領域でも起きているのではないかと問題提起する。

自―他のあいだの境界の膜の透過性が非常に高くなっていて、そのことによってわれわれは、これまでのどの時代にも増して、きわめて鋭敏になっていると。/透過性というのは、傷をつくらずに、侵入してくるみたいなこと。(78頁)

 小林はここで情報社会を例に出して、様々な情報が傷をつくらずに膜を透過してきて人々の免疫システムを不全にしているのではないかという論を立てる。自我の主戦場は境界にこそあるというわけだ。

自我は皮膚にこそあり(84頁) 

 私とあなたという二人がいるときに、免疫システムが不全な私の皮膚は、傷を負わずともあなたを受け入れるのだろうか。それはとてもロマンチックにも聞こえるけれど、不特定多数に対して皮膚がなんでも受け入れてしまうのは恐ろしい話だ。満員電車で触れた人々を受け入れたくなどはない。膜を透過させたくはない。

そうすると、皮膚を厚くする戦略がやはりよいのか?透過しづらい膜をつくる。これは引きこもりに向かう方向だ。引きこもりになって誰とも接しなければ幸せかといえばそれは違う。皮膚を厚くしても薄くしてもそれ相応のつらさが待っている。

自―他のあいだの関係が両義的に、曖昧になっていく、しかし同時にそれゆえに、いっそう孤立していく存在の在り方。(93,4頁) 

 小林はここで前回取り上げたブリコラージュ的装置の話への接続を試みているが、私にはそのつながりはよく分からなかった。

私は他人に触れられるのは基本的に嫌だ。相当親しい仲でない限り身体がびくっと嫌な反応をしてしまう。そのくせ、仲が良くなるとべたべた触りたがる。皮膚に関する態度がまさに両義的なのだ。良くも悪くもあるという問題に対しては、これという解決策が取りづらい。ただ、皮膚に注目するという観点を与えてくれたという意味で、この節は記憶に残っている。

小林, 康夫. (2015). 「第1章 ブリコラージュ的自由のほうに」. (『君自身の哲学へ』)

この章の第2節「自分だけのスタイルに向かって」では安部公房砂の女』で、昆虫採集を趣味にしている青年が砂原の窪地に落ちてしまい出てこれなくなってしまう場面が取り上げられる。これは前節の「井戸的実存」の話の続きである。ここで青年はカラスを捕まえるために奇妙な装置をつくる。カラスの脚に「助けてくれ」というメッセージをくくりつけるためにだ。青年はこの装置を《希望》と呼んだ。この本の問題はこの《希望》とはどのように手に入れられるのか、ということだ。

まず、奇妙な装置を彼がつくるという場面で生じている自由が問題とされる。

われわれがありきたりの与えられたものの組み合わせを通じて、そのつど自分にとって必要な装置を自由に組み立てていくというところに、人間がもっている根源的な自由というのがある。(49頁) 

レヴィ=ストロースが言ったようなブリコラージュこそが自由ということだ。ここで小林はブリコラージュに実存という概念を絡めてくる。実存とは、僕の師匠は、自分にとって最も大事なことはなんぞやと問うことだと言っていた。

自分自身の実存のブリコルール(bricoleur)、つまり「器用仕事する人」になる、というか。そして、そこに、偶然なのか、それともそうでないのか、なにか二重に括弧に入っているような《希望》というものが萌す。(49,50頁) 

自分にとって最も大事なことのための装置を、ありきたりの与えられたものの組み合せから作るとき、偶然的に《希望》が萌すというのだ。それは一体どんな装置なのか。

この装置は [...] 設計図があるようなものでもなくて、ある欲望、いや、ある願いのために、本来的には別の目的のために使うべきものがずらされて、たまたまそこにあるものからひとつのユニークな組み合わせが生まれてくるというところにポイントがある。(54頁)

おおよそ、先の引用の言い換えだが、「たまたま」生じる「ずれ」というところにポイントがあるようだ。別の箇所ではこの装置のことがこう述べられている。

みずから世界を組み換えて、創造する。それが自由ということです。[...] カラスに仕掛ける罠という他愛もないブリコラージュを生み出すという話です。ありきたりの無意味な、無価値なガラクタの組み合わせだけど、それは創造なのです。そこでは、自由が行為されている。自由の装置がつくり上げられている。(57頁)

創造による自由はどのように《希望》につながるのか。それは、創造された装置によって、出来事が到来することなのだ。出来事とは、偶然的=運命的で、計算不可能な、目的論の構造に還元されないようなもののことだ。

置かれた環境のなかでブリコラージュ的にダンスをする。そこに、純粋な出来事への待機があり、そしてそれはそのまま、ほとんど出来事そのものだ、と言いたいのです。希望とはそのようなものだ、と。(62頁) 

ダンスとはなにか。また別の箇所から引用する。

 まるでダンスのように、機能や意味に還元されない、正否の判断基準を逃れた、しかしどこか自分の実存の姿を映し出しているような「遊び」を、しかし真剣に遊ぶべきだろう、と。(66頁)

 一貫して、「なんのために?」「正しいことなの?」といった問いをずらした別の平面に《希望》の可能性が照らし出されていることが分かる。そして、その平面に行くには、真剣な遊びのダンスをすることが必要で、そこでは自分にとって最も大事な装置をブリコラージュする。なかなか難しい話に聞こえるが、単純そうでもある。

きょうはこれ以上考えがまとまらない。またの機会に追記を試みたい。

松岡, 正剛. (2005). 「2 フラジリティの記憶」.(『フラジャイル』所収)

「弱さ」とはなにかという問題をフラジャイルという言葉の消息を求めることで見つけていこうというのがこの本の目的だ。多様な文学作品への言及、多様な言い換えの中をさまよい続けさせられて「結局フラジャイルとはなんなのだ?」という思いに駆られるが、その捉えきれない断片性こそがフラジャイルなのだろう。

今回取り上げる「2 フラジリティの記憶」という節には印象的な詩の引用があった(76,7頁)。北原白秋による『青いとんぼ』である。

青いとんぼの眼をみれば

緑の、銀の、エメロウド

青いとんぼの薄き翅、

燈心草の穂に光る。

 

青いとんぼの飛びゆくは

魔法使ひの手練かな。

青いとんぼを捕ふれば

女役者の肌ざはり。

 

青いとんぼの綺麗さは

手に触るすら恐ろしく、

青いとんぼの落ち着きは

眼にねたきまで憎々し。

 

青いとんぼをきりきりと

夏の雪駄で踏みつぶす。

 最終行に注目してほしい。この心の動きを松岡は「このたいせつにしたいのに雪駄で踏みつぶしたくなるような二律背反の感覚が『邪険な哀切』なのである」(77頁)と書いている。「邪険な哀切」とはなにか。それはフラジリティに関わるものである。松岡は「この蝶と手のあいだにわずかにあるもの、その覚束ない感覚がフラジリティなのである」(75頁)と書いていた。

しかし、蝶や小鳥がフラジャイルなのは、それが稚くいとけないものであるからで、それはこわれやすくおぼつかなくて、それゆえにたいせつにされるのではない。蝶や小鳥が手にくるみたくなるほど愛らしいからフラジャイルだというわけではない。(75,6頁)

 では、なんだというのか。なにが蝶や小鳥をフラジャイルにしているのか。

そこには「うすばかげらふのやうな危機感」がなくてはならない。 

しかも、ここが大事なところになるが、そこには愛着と半ばする「邪険な哀切」といったものが関与する。愛着と裏切は紙一重、慕情と邪険も紙一重である。(76頁) 

 蝶や小鳥がフラジャイルなのはきりきりと夏の雪駄で踏みつぶしたくなるような「邪険な哀切」を抱かせるからだというのが松岡の主張なのだ。これを初読した当時の私(2018年2月)は頁の隅に「よくわかる・・・」とメモを遺している。しかし、今の私にはいまひとつピンとこない。この感覚の移ろいやすさもフラジャイルなものなのだろう。

「邪険な哀切」を孕んだ「覚束ない感覚」がフラジリティである、らしい。ひとつ思い出したことがある。ロヒプノールという睡眠薬がある。あれを舌下に入れて溶けるのを待つとなんとも淡い味が溶けていくのだ。あれはまさに「覚束ない感覚」であった。このロヒプノールはなかなか強い睡眠薬なので、眠気を誘ってくれるのだが、そのまま眠れるときと眠れないイライラに苛まれるときとがあった。睡眠薬に頼らなければならない苦々しい思いもあった。ロヒプノールに抱く二律背反の思いとあの舌下の淡い味が合わさって、社会に適合できない自分を慰めることができていた。今でも懐かしい味として思い出す。あれがフラジリティだったのか。

繊細なガラス細工に見惚れていると、ふとすべて投げ壊したらどうなるのだろうかと妄想するときがある。きりきりと青いとんぼを踏みつぶしたくなるような気分である。優しくしてくれる友人に酷い言葉を投げつけたらどうなるだろうと妄想する。「愛着と裏切は紙一重、慕情と邪険も紙一重である」のだ。これらの思いを抱かせる細工や友人はあの舌下のロヒプノールと同じ味がするのだろう。感覚を振動させる。固定されていないがゆえにどこか覚束ない感覚を思わせる関係。

このフラジリティはそのまま美しさであると思う。関係が固定された瞬間、心の振動を止めた瞬間、これらの感覚は消え失せてしまうだろう。覚束ない感覚と邪険な哀切とが私に美しさを見せてくれる。それが多少居心地悪かろうとも、美しさのためには愉しんでいきたいな、とぼんやり思う。

 

フランソワ, ジュリアン. 著. 中島, 隆博. & 志野, 好伸. 訳. (2017). 『道徳を基礎づける』

「誰もが、他者の身に起こることに忍びざるものがある(人皆有所不忍)」。[...] 誰にとっても、他人が不幸に沈んでいる時に、無関心でいられず、反応を引き起こすものがあるということ、それが「仁」なのだ。(34頁)

 この「忍びざる反応」とはなんなのか。この反応を出発点に道徳を基礎づけようというのが本書の目論見だ。道徳は理性によって基礎づけられると言ったのはカントだけれども、日々私たちも「相手の立場になって想像してみなさい」と想像力によって道徳を基礎づけようとしている。しかし、この「忍びざる反応」は想像力より手前で働くものなのだ。それは「私」と「相手」の区別が生じる以前の場所(私と相手のあいだ)で起こる≪反応≫である。理性の判断でも想像力でもない、相手に触発された反応なのだ。

そして、この心は人と人を結びつける。しかも、弱さではない仕方で。

忍びざる反応は、このような不幸な意識や悲惨趣味には全く侵されていない。それは、いかなる根本的な不幸もほのめかさないし、苦痛礼賛者のいかなる自己満足の糧にもならない。

それは弱さではない。他人を脅かすものを目の前にして沸き起こる、この忍びざる反応は、すぐさまわたしたちの存在の共同性を呼び起こし、生そのものであるこの結びつきを――わたしたちの間で――再活性化するのである。(72,3頁)

このメッセージは強く印象に残った。苦しんでいる友だちを助けようとするとき、それは弱さで弱さを慰め合う、負のスパイラルを生んでしまうのではと危惧していたからだ。しかし、「忍びざる反応」とは起こってしまうもので、仁の心がある限り押さえようのないものなのだ。そして、その結果生じるのは弱さなどではなく「生そのものであるこの結びつき」なのだ。

たしかに、相手の苦しさが伝染してこっちまで苦しくなってしまうことはよくある。相手に弱さを開示してもらうために、あえて自分の弱さを見せることもよくする。しかし、相手と生を通わせた結びつきが生まれるのは、そういうときならではでないのか。要するに諸刃の剣なのだ。

年々、負のスパイラルに陥らずに生の結びつきの方へと手をのばすことには長けてきているように思う。「忍びざる反応」という反応で相手に近づくところまではよい。そこから想像力を働かせすぎてはいけない。想像力による過度な同一化は危険である。手を差し伸べたいという気持ちを具体的にどういう行動に移すのか、そこが問われているのだ。

適切な距離ということがよく言われる。まず、「忍びざる反応」は反応なのだから、起きてしまうものなのだからもう仕方がない。手を差し伸べざるをえない。問題はそこからだ。手を差し伸べても近づきすぎてはいけない。共感と想像力による同一化には注意しなくてはならない。忍びざる反応は自他の区別が生じる前の間で生じる。しかし、生じた後には自他の区別を作り上げなくてはならない。難儀な話だが、仁の心を育てたいと願う私にとっては、これからも大きな課題のひとつである。

東, 浩紀. (2019). 「悪と記念碑の問題」. (『ゆるく考える』.)

人間から固有名を剥奪し、単なる「素材」として「処理」する、抽象化と数値化の暴力である。人間は世界を抽象化し数値化する。それはあらゆる知の源泉である。けれどもその同じ力は、人間を限りなく残酷にもする。 (310頁)

 この暴力性に気がついているひとはどれだけいるのだろうか。東はこの力を「抽象化と数値化の暴力。その悪は素朴にはあきらかだ」(311頁)と書いているが、私たちは日々匿名の統計データの素材を支払うことで様々なWebサービスを利用しているように、自分を抽象化し数値化することになんの抵抗感もないのではないか。むしろ、「それでサービスがよりよくなるなら」と進んで自分の身を捧げていることすらあるだろう。

具体的であること。量に還元されえない質的な存在であること。日々の生活の喜びはどちらかといえばこの具体的な手触りのあるお金で買えないところにある。この喜びを剥奪する暴力といって私たちが思い浮かべられるものはせいぜい具体的な暴力なのではないか。抽象化と数値化の暴力というもの自体、とても抽象的で想像しづらい。どうやったら皆にこの暴力性を伝えることができるのだろうか。

どうにも筆が進まない。私自身、抽象化と数値化によって知を生み出すことを生業としていて、まさに人間の活動の様々な側面を数値化することで生計を立てているからだ。「私は暴力を働いている」とは思っている。しかし、それが具体的にどんな暴力なのかはしっかりと考えてこなかった。抽象的には暴力だと分かっている。しかし、それを上手く説明できないでいる。だから今日も抽象化され数値化されたデータをいじくりまわしている。

研究の世界では、量的研究と質的研究の対立というものがある。統計的手法を使ってデータからなにかを言おうとする人たちと、インタビューやフィールドワークからなにかを言おうとする人たちとの対立だ。私は前者の派閥に身を置いてきたが、いつも後者への憧れがあった。「具体的にみてみないと分からないよね」という思いがあるのだ。統計データの作り上げる「言えそうなこと」はどこか嘘くさくて現実味が感じられない。しかし、そんな嘘くさくて現実味が感じられないものこそが客観的なエビデンスとしてありがたがられる昨今の風潮がある。きっとそういう人たちは抽象化と数値化とに憧れているのだ。私とは真逆の性向である。抽象的で数値的であるほうがなんだか「知」っぽいのだろうか。私にはそうには思えない。いつも欺瞞を働いている罪の意識がある。

この罪の意識はなんなのか。抽象的で数値的な「知」によってなにか分かった気になってあれこれ人々の活動を断じていい気になってしまうことへの罪悪感か。統計データをこねくり回せば言いたいことのためにデータを捻じ曲げられてしまうことへの不信感か。私にとっては抽象的で数値的なものは不誠実なもので、具体的で非数値的なものの方が誠実なものに思われる。しかしそれは伝達が難しい。いや、伝達が難しいから大切なものなのかもしれない。

なぜ皆は平気な顔をしてマッチングアプリを使えるのか。私の性格や趣味嗜好が点数化された多次元空間で距離の近いひとがサジェストされてくる、という事実に怖気が走らないのか。なぜなのか。私がデータ化されることに喜びを感じるひとは大勢いる。それが私をどれだけ捨象しているのか、どれだけ切り刻んでいるのか。自分や配偶者の価値を年収で計るひとがいる。ひとの価値を単一の数値に還元することの暴力に気が付かないのか。

しかし「私の夫の年収は2000万円です」というような発言を好まないひとは多い。「夫を金でしかみていないのか」と思うひとは少なくないだろう。そう、これだ。これは数値化の暴力が伝わりやすそうな例だ。「私の夫は上場企業の役員です」も夫をあるカテゴリーの一部とみなす抽象化の暴力だ。夫の顔は見えてこない。夫の固有名は剥奪されている。そうか、私がこういうひとたちを嫌いな理由はそこに暴力が溢れているからなのか。

「抽象化と数値化の暴力」に対しては繊細でなくてはならない。肝に銘じて過ごすとともに、周りの人たちにもこの暴力の存在を伝えていきたい。

根本, 達.(2018). 「運動と当事者性――どのように反差別運動に参加するのか」.(『21世紀の文化人類学――世界の新しい捉え方』.)

このテーマに関連のある身の回りで関心を持っていることは、ジェンダーLGBT(Q)を巡る問題だ。「緩くすべてを包摂してあげるからね」というマジョリティの態度に「私の当事者性はそんな言葉とは違う!」と怒りの声をあげるマイノリティという構図をよく見かけるようになった。マジョリティになんの期待をしているのだか…。分からないなりに分かろうとしてくれていたら、なんか違うなという解釈は生まれるだろう。それに対する態度は怒りを向けることではなく、自分の解釈を理解してもらおうとする努力なのではないだろうか。

本章のテーマは「アイデンティティ・ポリティクス」だ。

「自分が誰であるか」を排他的に決定し、所属場所を与えるアイデンティティ・ポリティクスが存在感を増している。民族や宗教の間の違いを強調することで、狭義の当事者性を設定する [...] これは、流動化によって集団間の違いが見えづらくなるなかで、確実な差異を創出しようとする近代的な現象である (226,7頁)

 このアイデンティティ・ポリティクスでは、差別者が被差別者を同じコミュニティのメンバーから排除することが起きるわけだが、そこで『オリエンタリズム』を引いて指摘されることには身をつまされる。

排除する側が排除される側に与えた価値は、被差別者が持っている特徴などではなく、実際には差別者の内側に隠されている一部である。(229頁)

 これは、あらゆる敵対的な関係に当てはまる至言のように思える。嫌いな人の嫌いなところも実は私の内側に隠されている一部なのだろうし、当事者がマジョリティに抱く反感もきっとそういう側面はある。「あいつらは○○だからな」という暴力的なレッテル貼りは常にブーメランにしかならないということだ。

ここでは、マイノリティによるアイデンティティ・ポリティクスの戦略についても触れられている。フェミニズムの歴史とよく重なる記述だ。

権力を持つ側によるアイデンティティ・ポリティクスが現状の権力関係を維持・強化するものであるのに対し、被差別者が取り組むアイデンティティポリティクスは自分たちを排除する社会を変えようとする動きである。この被差別者によるアイデンティティ・ポリティクスの特徴の一つは、マジョリティから与えられた否定的なカテゴリーを自ら用い、その境界線自体は変更しないまま肯定的なものへ改変することで、自己尊厳の獲得を目指す点にある。ただし、アイデンティティへの肯定的な意味づけを生み出す上で、マイノリティは、その社会で自らを排除する支配的なイデオロギーを用いることはできない。そのためにマイノリティは、自分たちに有利に働く「歴史」を描き出す必要がある。(231,2頁) 

 では、マジョリティが「包摂してあげるからね」という態度で接してきたときにはどうすればいいのか。そこに一種の暴力を見出すのもひとつの手だろう。マジョリティが彼らの勝手な想像力で設定されたカテゴリーに押し込められるのは確かに居心地が悪い。ゲットーに入れば最低限の身の安全は保障されますよ、というようなことだ。

当事者が持っているのは「私達には私達のカテゴリーがあるのだ!」と主張して、それを社会の中に位置づけたいという欲望なのだろう。引用した戦略とは随分異なる方法だ。カテゴリーを生み出す能力がマジョリティだけでなくマイノリティにもあるのだろうか。あるとしたらどうやって?

ここで登場するのが「生活世界」という概念である。

日常生活のレベルでわれわれは、生活現場から独立した運動のイデオロギーを参照するのではなく、生活現場に慣習的に根づいてきた論理を基礎として物事を理解している。

[...] それぞれは日常生活において、もともと持っていた枠組みを利用して新たに登場した事物に意味を与え、より受け身のかたちで自分たちが理解できるものへと読み替えることになる。

同時にそれぞれは、新たな事物を既存のものと区別できる別の文化として取り込もうとするため、生活世界に維持されてきた慣習的な意味づけの枠組みも無意識的なかたちで変化してく(241,2頁) 

 日常生活で具体的に目の前に異質な他者が現れることこそがカテゴリーを変容させるのだという話だろう。「男」「女」という二項対立でお互いに攻撃し合う「運動のイデオロギー」からは男女が理解し合う日は訪れない。しかし、カテゴリーの境界にある曖昧な場所にいる「女みたいな男」といった具体的な他者に日常生活で出会うことは、男女の歩み寄りを進めることができるかもしれない。

マジョリティ vs マイノリティというように抽象的なカテゴリーをお互いが勝手に引き合っているうちは争いは終わらない。抽象的な相手には気軽に暴力を振るえてしまう。いかに生活世界に異質さを滑りこませるのか。この誤配を起きやすくする方法を考えていきたい。

「「ダメ女」と「一汁一菜」」(三浦哲哉.『食べたくなる本』. みすず書房. 2019年. 77-95頁.)

土井善晴の「一汁一菜」の提案には助けられている。

料理の中で一番億劫になるのは、「夕飯どうしよう」と考えているときだ。買い出しのタイミングなどを考えるとお昼ご飯が消化しきらないうちに考え始めなければならない。端的に苦痛だ。しかし、「一汁一菜」という型が与えられているだけで、スーパーマーケットに広がる無限の食材と無限の調味料からなる無限の組合せから守ってもらえるのだ。

「一汁一菜」は、ようするに、そこにひとが戻ってこられるなにか、毎日繰り返されるということによってひとがそこから「安心」と「信頼」 を確保することができるようななにかである。(88頁)

型を守ること、それが繰り返されることから「安心」と「信頼」が生まれると三浦は述べる。おしゃべりだってそうだろう。友達ごとに違うおしゃべりの型があって、「安心」と「信頼」のためにいつものおしゃべりをするのだ。そういえば、私の好きな異国の料理を作った日よりも、伝統的な和食を作った日のほうが妻の顔は安堵しているかもしれない。今度観察してみよう。

この章で「一汁一菜」は、「手をかけた」=「愛情の込もった」という等式が崩れ、親から継承される料理の伝統が一度崩壊した後の世界で、もう一度料理の習慣そのものを立ち上げるには、という文脈で登場する。この等式は特に育児中の母親から評判が悪いように思う。しかし、この等式を悪しきものとして時として嘲笑するのが正しい態度なのだろうか。

(手の込んだ料理ほどよいという認識が変わってゆく現実は)家事労働に有無を言わさず拘束されていた女性たちの「解放」という側面を持つだろう。だが、もっとシビアに言ってしまえば、それは社会全体の貧困化の帰結でもある。(78頁)

愛情は手間に比例する関数ではない。そんなものは自己満足だ。押し付けないでくれ。そんな余裕はないんだ、というメッセージは貧しさとせちがらさに色づけられている。貧しくないほうが幸せだし、せちがらくないほうが生きやすい。だから、この等式を批判する自分は貧しくなってしまった社会によって生み出されたのだと認識していることは心の豊かさの目指す先を失わないためには必要だろう。それが「手をかけた」というものとは違う仕方だろうがなんだろうが、人生は愛情の多い方に向かっていたほうがよいと私は思う。

この章では「安心」と「信頼」と「愛情」とが語られた。型を守ることで生み出される「安心」と「信頼」に対して、「愛情」はどう生み出されるのか。手はかけない、しかし、貧しくはない愛情に至る仕方はどこにあるのだろうか。しかしやはり私は「愛情」は丁寧さから生まれると思う。炊き合わせをしろと言っているんじゃない。手順を雑にせず、食べるひとの口に入るときのことを考える。具体性に思いを馳せること。食べることから生まれる幸せを願うこと。

他方で、誰かにつくるときはまだいい。しかし、一人で食べるご飯のときに、自分自身への愛情をもっと持ちたい。つい雑なものを作ってしまう。自分が自分自身に「安心」と「信頼」と「愛情」とを与えられたら、私はもっと幸せかもしれないという像を抱こう。

 

千葉雅也「禁煙ファシズムから身体のコミュニズムへ」を読んで

千葉雅也「禁煙ファシズムから身体のコミュニズムへ」.『Voice』. PHP研究所. 2017年9月号. を読んだ。
(Web版も公開されていた http://shuchi.php.co.jp/voice/detail/4236

完全禁煙派や草食系、ベビーカーに文句を言うような人たちは「私とあなたの境界線を完全に引きたがる」というところが千葉さんの話で印象的だった。これを身体の私的所有であると千葉さんは位置付け、身体のコミュニズムと対比した。
この話で思い出したのは、千葉さんも念頭に置いていたであろう小林康夫『君自身の哲学へ』にあった皮膚の哲学の話だった。

小林康夫は、現代人は免疫系の不全に陥っていると診断する。免疫系とは「自己の身体の内部で、自己―他者の認識システムを作動させて、自己を自己としてバランスさせる仕組み」(74)であり、自―他の境界の膜の透過性が非常に高くなったことがその不全の原因であるとしている。つまり、情報社会における自己のコントロールを超えた情報・イメージ・異物・暴力が目に見えない仕方で侵入してくることが「外傷なき傷」を刻み、この障害を生んだのだという。その結果「免疫が弱くて癌になるのか、免疫が強すぎてアトピー的なアレルギーをおこすのかの、二者択一みたいな状態」(74)に私たちの身体は置かれているというのだ。

ここで僕の脳裏には、情報・イメージ・異物・暴力の自己コントロールを超えた不可視の侵入と「外傷なき傷」は≪溶血≫を引き起こすというイメージが浮かんだ。赤血球が、自分よりも浸透圧が低い血しょうに置かれた場合や外傷によって破裂してしまうという昔学校で教わったあの溶血だ。私たちの身体に見えない何かが大量に侵入してきていて、私たちに外傷なき傷を残しているのだとしたら、赤血球のように破裂し溶けて消えてしまうのではないか。

私たちは溶血を恐れているとしてみよう。
まず私たちにとっての浸透圧に相当するものとして≪身体のエントロピー≫というものを考えたい。エントロピーとは物事のバラバラさを表すものでランダムさの指標である。このエントロピーを用いてグレゴリー・ベイトソンはストレスを定義しており、私たちが高いストレス状態にあるときに身体のエントロピーは極端に低くなりランダムさが失われると述べている。これはちょうど、雪山で遭難した人が1から10の数字をランダムに言おうとしても「1,2,3,4,5,6,7,8,9,10」としか言えなくなると中井久夫が書いていたことと合致している。私たちの環境・外側の世界について考えてみるとそのエントロピーは高い。バラバラの人たちがバラバラになにかをしていて、バラバラの情報がひっきりなしに私たちの身体に侵入しようとしてくるのだ。これを高すぎる≪環境のエントロピー≫と表現したい。この2つのエントロピーの状態から、私たちは次のような状態にある。

  • 高すぎる≪環境のエントロピー≫の侵入によって、私たちはバラバラになって溶血する。
  • 低すぎる≪身体のエントロピー≫は私たちのランダムさを奪い、私たちはノイズに対して脆弱になる。
  • この2つを避けるために私たちは≪身体のエントロピー≫を適度に保ち、ランダムさを飼いならさなければならない。

この課題について考えるために、この2つのエントロピーから千葉さんの提出した問題を解釈してみたい。

身体の私的所有を目指す完全禁煙派は≪身体のエントロピー≫が低すぎる自己を守るために環境のノイズを極端に嫌うのではないだろうか。そのために≪環境のエントロピー≫を徹底的に排除しようとする。≪身体のエントロピー≫を改善するのではなく、環境に働きかけることで自他のバランスを取ろうとする。これは危ういやり方だ。というのは、低すぎる≪身体のエントロピー≫を自他がバランスする点にすることは無迷惑社会を導くからだ。私見だが、無迷惑社会で迷惑とされているものにはお互い助け合ったほうがよいものが多い。それを迷惑とするのは、そもそも助け合いとは同情がきっかけで起こる他者の侵入であるからだ。同情と訳されるドイツ語のMitleidが共に(Mit)-苦しむ(leid)という意味であるように、助け合いとは他者の侵入であり共に苦しむことなのだ。同情は自他の境界線を取り払う力を持っているのだ。もちろん、≪身体のエントロピー≫が低すぎる人たちはそんなものはまったく御免だろう。

対して、身体のコミュニズムは、≪環境のエントロピー≫を飼いならす戦略なのだと考えた。情報過多の時代にあっては、目を引くものを全て所有することや比較しきることは不可能だ。そこで所有ではなく「アクセス可能性」を買うという考え方がある。Apple Musicのようなサブスクリプションサービスがその一例だ。もっと社会的な諸相でもアクセス可能性を買うということはありそうだ。アクセス可能性を買っておけば、ある有限化されたデータベースの中から情報を所有することなしに選択的に取り込むことができる。選択的取り込みという免疫系の機能とデータベースの有限性を買っているのかもしれない。この購入によって、環境側にあったものを私の手の内で操作できるものに変換可能になる。≪環境のエントロピー≫を選択的に取り込むことができるようになるのだ。そしてこの取り込みによって≪身体のエントロピー≫を徐々に改善していくことで、ちょうどいい均衡点を見つけ出すという戦略だ。

以上、全面喫煙可の喫茶店でノートに書いた内容はこのようなものだった。

あなたの主張を幸せにする、妥当な論証を行うために必要な9つの論証形式

戸田山和久, 2002, 『論文の教室』, NHK出版. を参考にして書いています。)

(1)モードゥス・ポネンス
AならばBである。Aである。故に、Bである。
※妥当でない論証:AならばBである。Bである。故に、Aである。
(2)モードゥス・トレンス((1)の対偶)
AならばBである。Bではない。故に、Aではない。
※妥当でない論証:AならばBである。Aではない。故に、Bではない。
(3)構成的ディレンマ
AかBのどちらかである。AだとするとCである。BだとしてもCである。故に、いずれにせよCである。
※反論するには、
a) 場合分けがすべての場合を尽くしていない
b) それぞれの条件文を疑う

(4)背理法
a) Aではないと仮定してみよう。そうすると・・・矛盾が生じてしまった。故に、Aである。
b) Aであると仮定してみよう。そうすると・・・矛盾が生じてしまった。故に、Aではない。
※矛盾が出たとは、
a) 最初に仮定したことに反する命題が出てきた
b) 仮定からBであるという命題とBではないという命題が両方でてきてしまった

(5)帰納法(弱い論証形式)
※注意事項は、
a) サンプルはできるだけ多くなければならない
b) サンプルはできるだけバラエティに富んでなければならない
c) 偶然的な一般化を疑わなくてはならない
d) 例外に目を向ける。ただし、例外はサンプル集団の典型的なメンバーの中にたくさん存在することを指摘されなければセーフ

(6-1)アブダクション(弱い論証形式)
Aということがすでに分かっている。Hと仮定すれば、なぜAなのかがうまく説明できる。他に、なぜAなのかをHと同程度に説明できる仮説はない。故に、おそらくHは正しい。

(6-2)仮説演繹法(弱い論証形式)
アブダクションの次に、仮説の確かめがなされることが多いHという仮説が正しいならば、Bということが成り立つはずだ。じっさいBである。故に、おそらくHは正しい。
※これは(1)モードゥス・ポネンスで挙げた妥当でない論証形式だが、これが妥当とみなされるのは以下のどちらかの条件が成り立っているからである。
a) Hの他にAをうまく説明してくれる対立仮説がない。
b) Hと同程度にAを説明してくれる対立仮説H'が、(6-3)対立仮説の反証によって退けられている。

(6-3)対立仮説の反証(モードゥス・トレンスの形式)
対立仮説H'が正しいならば、Cということが成り立つはずだ。しかしながら、実際はCではない。故に、H'は間違っている。
※ここでCとは、Hにもとづく新しい予言。
(6-4)アナロジー(かなり弱い論証形式)
aは重要な点でbと似ている。bについてはcということが成り立っている。故に、おそらくaについてもcということが成り立つ。
※aとbが似ていることを主張するためにかなり長い論証が必要。
※似ているとしても、重要な点が似ているのでない場合は成り立たない。

【重回帰モデル】回帰の診断(2)――変数はすべて適切か?

※重回帰モデルについての、小暮厚之先生の講義ノート(2012年)を基にした覚書です。

この記事は、「変数をとりあえず全部入れて回帰分析をして、これとそれが有意だったので、意味のある影響を持つ変数はこれとそれで〜」のような分析を駆逐したいという強い思いから書きました。
赤池先生の情報量基準を使って変数選択をして、真のモデルにできるだけ近づけたモデルから議論をしましょう!

回帰の診断:回帰モデルを推定した後に・・・

使用したデータなどは、前回(【重回帰モデル】回帰の診断(1)――異常な観測値はないか?)を参照してください。

AICとその修正版――回帰分析における変数選択の基準
※R2乗、自由度調整済みR2乗は基準足りえる根拠がない。

AIC(BIC)が小さいモデルほどよいモデルとみなす。

  • AIC:「将来の予測」に適する

AIC=n\log(\frac{RSS}{n})+2K
RSS: 残差二乗和, K=説明変数の個数

  • BIC:「現在及び過去の説明」に適する

BIC=n\log(\frac{RSS}{n})+\log(n)K

AICによる説明変数の選択

> step(Term1.kaiki3, criterion="AIC", direction="forward")
Start:  AIC=228
LNFACE ~ LNINCOME + EDUCATION + NUMHH + d197


Call:
lm(formula = LNFACE ~ LNINCOME + EDUCATION + NUMHH + d197, data = Term1)

Coefficients:
(Intercept)     LNINCOME    EDUCATION        NUMHH         d197  
     2.0494       0.5749       0.1843       0.2824       5.0623  

AICは228で、先ほどのモデルと同じ変数が選択されました。

では、次に、TermLife.csvに入っていたすべての変数から変数選択を行います。

> names(Term2)
 [1] "GENDER"             "AGE"                "MARSTAT"           
 [4] "EDUCATION"          "ETHNICITY"          "SMARSTAT"          
 [7] "SGENDER"            "SAGE"               "SEDUCATION"        
[10] "NUMHH"              "INCOME"             "TOTINCOME"         
[13] "CHARITY"            "FACE"               "FACECVLIFEPOLICIES"
[16] "CASHCVLIFEPOLICIES" "BORROWCVLIFEPOL"    "NETVALUE"          
[19] "LNFACE"             "LNINCOME"          

> x = names(Term2[-c(11, 14, 19)])
> # xはTerm2からINCOME, FACE, LNFACEを除いたもの
> fmla = as.formula(paste("LNFACE~", paste(x, collapse="+")))
> fmla
LNFACE ~ GENDER + AGE + MARSTAT + EDUCATION + ETHNICITY + SMARSTAT + 
    SGENDER + SAGE + SEDUCATION + NUMHH + TOTINCOME + CHARITY + 
    FACECVLIFEPOLICIES + CASHCVLIFEPOLICIES + BORROWCVLIFEPOL + 
    NETVALUE + LNINCOME
> fmla #回帰分析のformulaを作成
LNFACE ~ GENDER + AGE + MARSTAT + EDUCATION + ETHNICITY + SMARSTAT + 
    SGENDER + SAGE + SEDUCATION + NUMHH + TOTINCOME + CHARITY + 
    FACECVLIFEPOLICIES + CASHCVLIFEPOLICIES + BORROWCVLIFEPOL + 
    NETVALUE + LNINCOME

> Term2.kaiki = lm(fmla, data=Term2)
> summary(Term2.kaiki)

Call:
lm(formula = fmla, data = Term2)

Residuals:
    Min      1Q  Median      3Q     Max 
-5.4824 -0.8606  0.1178  0.9367  4.0784 

Coefficients:
                     Estimate Std. Error t value Pr(>|t|)    
(Intercept)         5.111e+00  1.206e+00   4.239 3.14e-05 ***
GENDER              7.466e-01  3.916e-01   1.906 0.057716 .  
AGE                -1.635e-02  1.193e-02  -1.371 0.171575    
MARSTAT            -6.695e-01  4.624e-01  -1.448 0.148894    
EDUCATION           1.709e-01  4.674e-02   3.657 0.000310 ***
ETHNICITY          -3.945e-02  6.655e-02  -0.593 0.553799    
SMARSTAT            2.040e-01  1.998e-01   1.021 0.308321    
SGENDER            -3.914e-01  5.771e-01  -0.678 0.498272    
SAGE                1.103e-02  1.424e-02   0.775 0.439325    
SEDUCATION          4.239e-02  5.153e-02   0.823 0.411484    
NUMHH               2.448e-01  7.773e-02   3.149 0.001829 ** 
TOTINCOME           3.918e-09  2.844e-08   0.138 0.890536    
CHARITY             6.300e-06  2.452e-06   2.569 0.010769 *  
FACECVLIFEPOLICIES  4.933e-08  3.830e-08   1.288 0.198908    
CASHCVLIFEPOLICIES  1.175e-06  1.081e-06   1.087 0.278078    
BORROWCVLIFEPOL     5.244e-02  4.726e-02   1.110 0.268226    
NETVALUE            2.155e-02  2.412e-01   0.089 0.928890    
LNINCOME            3.342e-01  8.553e-02   3.907 0.000119 ***
---
Signif. codes:  0***0.001**0.01*0.05 ‘.’ 0.1 ‘ ’ 1 

Residual standard error: 1.483 on 257 degrees of freedom
Multiple R-squared: 0.4104,	Adjusted R-squared: 0.3714 
F-statistic: 10.52 on 17 and 257 DF,  p-value: < 2.2e-16 

全部入れモデルでは、EDUCATION, NUMHH, CHARITY, LNINCOMEが有意になっています。これらの変数は選択されるのでしょうか。また、これら以外の変数は選択されないのでしょうか。
ここではもうひとつの情報量基準、BICを用いて変数選択をしてみます。

> step(Term2.kaiki, criterion="BIC", direction="backward")
Start:  AIC=234.2
LNFACE ~ GENDER + AGE + MARSTAT + EDUCATION + ETHNICITY + SMARSTAT + 
    SGENDER + SAGE + SEDUCATION + NUMHH + TOTINCOME + CHARITY + 
    FACECVLIFEPOLICIES + CASHCVLIFEPOLICIES + BORROWCVLIFEPOL + 
    NETVALUE + LNINCOME

                     Df Sum of Sq    RSS    AIC
- NETVALUE            1     0.018 565.40 232.21
- TOTINCOME           1     0.042 565.42 232.22
- ETHNICITY           1     0.773 566.15 232.57
- SGENDER             1     1.012 566.39 232.69
- SAGE                1     1.320 566.70 232.84
- SEDUCATION          1     1.489 566.87 232.92
- SMARSTAT            1     2.292 567.67 233.31
- CASHCVLIFEPOLICIES  1     2.599 567.98 233.46
- BORROWCVLIFEPOL     1     2.708 568.09 233.51
- FACECVLIFEPOLICIES  1     3.649 569.03 233.97
<none>                            565.38 234.20
- AGE                 1     4.135 569.51 234.20
- MARSTAT             1     4.611 569.99 234.43
- GENDER              1     7.995 573.37 236.06
- CHARITY             1    14.517 579.90 239.17
- NUMHH               1    21.821 587.20 242.61
- EDUCATION           1    29.415 594.79 246.15
- LNINCOME            1    33.584 598.96 248.07

# …中略…

Step:  AIC=221.35
LNFACE ~ GENDER + EDUCATION + NUMHH + CHARITY + FACECVLIFEPOLICIES + 
    BORROWCVLIFEPOL + LNINCOME

                     Df Sum of Sq    RSS    AIC
<none>                            580.28 221.35
- BORROWCVLIFEPOL     1     4.303 584.58 221.38
- FACECVLIFEPOLICIES  1     6.770 587.05 222.54
- GENDER              1    15.116 595.39 226.42
- CHARITY             1    18.088 598.36 227.79
- NUMHH               1    32.243 612.52 234.22
- LNINCOME            1    37.571 617.85 236.60
- EDUCATION           1    65.242 645.52 248.65

Call:
lm(formula = LNFACE ~ GENDER + EDUCATION + NUMHH + CHARITY + 
    FACECVLIFEPOLICIES + BORROWCVLIFEPOL + LNINCOME, data = Term2)

Coefficients:
       (Intercept)              GENDER           EDUCATION  
         3.611e+00           7.399e-01           2.082e-01  
             NUMHH             CHARITY  FACECVLIFEPOLICIES  
         2.446e-01           6.663e-06           5.732e-08  
   BORROWCVLIFEPOL            LNINCOME  
         6.133e-02           3.427e-01  

GENDER, EDUCATION, NUMHH, CHARITY, FACECVLIFEPOLICIES, BORROWCVLIFEPOL, LNINCOMEを用いるモデルが選択されました。最初の全部入れモデルよりもAICが234.2から221.35へと減少しました。

では、このモデルではどの変数が有意となるのでしょうか。

> Term2.BIC = lm(LNFACE ~ GENDER + EDUCATION + NUMHH + CHARITY + FACECVLIFEPOLICIES + BORROWCVLIFEPOL + LNINCOME, data=Term2)
> summary(Term2.BIC)

Call:
lm(formula = LNFACE ~ GENDER + EDUCATION + NUMHH + CHARITY + 
    FACECVLIFEPOLICIES + BORROWCVLIFEPOL + LNINCOME, data = Term2)

Residuals:
    Min      1Q  Median      3Q     Max 
-5.5707 -0.9019  0.1245  0.9090  4.1471 

Coefficients:
                    Estimate Std. Error t value Pr(>|t|)    
(Intercept)        3.611e+00  8.877e-01   4.069 6.23e-05 ***
GENDER             7.399e-01  2.806e-01   2.637 0.008848 ** 
EDUCATION          2.082e-01  3.799e-02   5.479 9.89e-08 ***
NUMHH              2.446e-01  6.350e-02   3.852 0.000147 ***
CHARITY            6.663e-06  2.310e-06   2.885 0.004234 ** 
FACECVLIFEPOLICIES 5.732e-08  3.247e-08   1.765 0.078710 .  
BORROWCVLIFEPOL    6.133e-02  4.359e-02   1.407 0.160548    
LNINCOME           3.427e-01  8.241e-02   4.158 4.33e-05 ***
---
Signif. codes:  0***0.001**0.01*0.05 ‘.’ 0.1 ‘ ’ 1 

Residual standard error: 1.474 on 267 degrees of freedom
Multiple R-squared: 0.3949,	Adjusted R-squared: 0.379 
F-statistic: 24.89 on 7 and 267 DF,  p-value: < 2.2e-16 

全部入れモデルでは、EDUCATION, NUMHH, CHARITY, LNINCOMEが有意でしたが、変数選択後のモデルでは、GENDER, EDUCATION, NUMHH, CHARITY, LNINCOMEが有意で、新しくGENDERが有意となりました。
このGENDERは全部入れモデルでは他の変数の影響を受けて、ゴチャゴチャになり埋もれていたと考えられます。変数選択は絶対ではありませんが、変数選択後のモデルを用いたほうが「真のモデル」により近い、誠実な結果が得られるはずです。
これを機に全部入れモデルだけから、「これとそれが有意だった」と結論付けるやり方はぜひ辞めてください。お願いします。

※多重共線性については次回に見送ります。

【重回帰モデル】回帰の診断(1)――異常な観測値はないか?

※重回帰モデルについての、小暮厚之先生の講義ノート(2012年)を基にした覚書です。

回帰の診断:回帰モデルを推定した後に・・・

  • 異常な観測値はないか?(外れ値の検出)←今回はここをやります。
  • 変数はすべて適切か?(説明変数の選択[AIC, BIC]、多重共線性)←次回やります。


使用したデータ:2004年調査のSCF(Survey of Consumer Finances)から無作為に抽出した有収入の500世帯の中で、生命保険に加入している275世帯のデータ(TermLife.csv)。

分析の目的:生命保険に対する各家計の需要を説明したい。
各家計が加入する生命保険の保険金額(FACE)を説明する。説明変数として、年収(INCOME)、世帯主の教育程度(EDUCATION)、世帯構成人数(NUMHH)を考える。

> # ファイルの読み込み
> Term = read.csv("./R/TermLife.csv", header=T)
> Term2 = subset(Term, subset=FACE > 0)  # Termから保険に加入した世帯(FACE>0)だけを取り出す。
> Term2$LNFACE = with(Term2, log(FACE)) # FACEの対数値
> Term2$LNINCOME = with(Term2, log(INCOME)) # INCOMEの対数値


ここで対数をとっているのは、重回帰モデルが正規分布を前提としたモデルだから。
対数変換することで、だいたいの変数の分布は正規分布に近づく。

> Term1 = subset(Term2, select=c(EDUCATION, LNFACE, LNINCOME, NUMHH))  # EDUCATION, LNFACE, LNINCOME, NUMHHのみからなるデータセットを作成する。
> summary(Term1)
   EDUCATION         LNFACE          LNINCOME          NUMHH     
 Min.   : 2.00   Min.   : 6.685   Min.   : 5.561   Min.   :1.00  
 1st Qu.:13.00   1st Qu.:10.820   1st Qu.:10.545   1st Qu.:2.00  
 Median :16.00   Median :11.918   Median :11.082   Median :3.00  
 Mean   :14.52   Mean   :11.990   Mean   :11.149   Mean   :2.96  
 3rd Qu.:16.50   3rd Qu.:13.288   3rd Qu.:11.695   3rd Qu.:4.00  
 Max.   :17.00   Max.   :16.455   Max.   :16.118   Max.   :9.00  

> cor(Term1) # 相関行列
           EDUCATION    LNFACE  LNINCOME      NUMHH
EDUCATION  1.0000000 0.3828489 0.3427036 -0.0635292
LNFACE     0.3828489 1.0000000 0.4818427  0.2876115
LNINCOME   0.3427036 0.4818427 1.0000000  0.1793354
NUMHH     -0.0635292 0.2876115 0.1793354  1.0000000

> Term1.kaiki = lm(LNFACE~LNINCOME+EDUCATION+NUMHH, data=Term1)
> summary(Term1.kaiki)

Call:
lm(formula = LNFACE ~ LNINCOME + EDUCATION + NUMHH, data = Term1)

Residuals(残差):
    Min      1Q  Median      3Q     Max 
-5.7420 -0.8681  0.0549  0.9093  4.7187 

Coefficients:
            Estimate Std. Error t value Pr(>|t|)    
            (回帰係数) (標準誤差) (t値) (p値)
(Intercept)  2.58408    0.84643   3.053  0.00249 ** 
LNINCOME     0.49353    0.07754   6.365 8.32e-10 ***
EDUCATION    0.20641    0.03883   5.316 2.22e-07 ***
NUMHH        0.30605    0.06333   4.833 2.26e-06 ***
---
Signif. codes:  0***0.001**0.01*0.05 ‘.’ 0.1 ‘ ’ 1 

Residual standard error: 1.525 on 271 degrees of freedom
Multiple R-squared(R2乗): 0.3425,	Adjusted R-squared(自由度調整済みR2乗): 0.3353 
F-statistic(F統計量): 47.07 on 3 and 271 DF,  p-value(F統計量に対するp値): < 2.2e-16 


自由度調整済みR2乗値が0.335というのは、小さいのかどうか(回帰モデルが妥当かどうか)は、よくわからない経験則ではなく、F統計量から判断する。
判断方法は、「R二乗値なんて信仰にすぎない!」について(F統計量のお話)に記述してあります。

重回帰分析の仮定

  • 誤差項は平均がゼロ、分散が一定値\sigma^{2}正規分布に互いに独立に従う
  • 誤差項と各説明変数は無相関

これらは、以下の5つの仮定に分けられる

  1. 誤差項の平均はゼロ
  2. 誤差項の分散は一定
  3. 誤差項は互いに独立
  4. 誤差項は正規分布に従う
  5. 誤差項と各説明変数の相関係数はゼロ

これらの仮定は、残差を見ることによって事後的に正否を判断できる

> # 残差の検討:外れ値
> e = resid(Term1.kaiki) # 残差
> se = sum(e^2)/271 # 残差標準誤差
> e.std = e/se # 標準化残差
> yhat = predict(Term1.kaiki) # 回帰予測値
>
> # 回帰予測値への標準化残差のプロット
> plot(yhat, e.std)
> abline(h=c(-1.96, 1.96), col="red")

誤差分散が不均一であると、誤差の標準誤差が誤って評価される。その結果、信頼区間や検定が信頼できないものとなる。
赤線の外側にあるものが外れ値。


> # 外れ値の検出
> names(e) # eの各値の名前はFACE<=0のものが抜けた飛び飛びの番号になっている
> names(e) = 1:length(e) # eの各値の名前を"1から271"に変更
> e[order(abs(e))]
          241          229          172 
4.704770582  4.718672358 -5.741985758 
> # abs(e)はeの絶対値
> # order(abs(e))は絶対値でのeの順番
> # e[order(abs(e))]は絶対値の順番でeを並び替え


異常値の検出
「今あるデータから主張した」というのではなく、違う場面でも当てはまるものであるべき。ロバストネス大事。異常値によって引っ張られた結果、回帰係数が偶然有意だった、とかいうのはその場限りの頑健性のかけらもない主張。
2つの外れ方

  1. 外れ値(utlier):残差が大きい観測値→被説明変数の乖離を表す
  2. 影響値(influential observation):レバレジ(影響力)の大きい観測値→説明変数の乖離を表す

レバレジ(影響力)

> library(car)
 要求されたパッケージ MASS をロード中です 
 要求されたパッケージ nnet をロード中です 
> influencePlot(Term1.kaiki, id.method="identify")


  • ハット値は、説明変数の外れ具合
  • ステューデント化残差は、被説明変数の外れ具合
  • 円の面積はクックの距離であり、2つの外れ具合両方を表すもの

※ここからは、疲れたので端折ってます。後日追記します(多分…)。
クックの距離
クックの距離は、被説明変数と説明変数の両方の外れ具合の指標。

> plot(Term1.kaiki, 4)

> cooks.distance(Term1.kaiki) #クックの距離の数値を取り出す
         352          355          356          357          360          361 
1.264793e-05 3.727564e-04 1.659352e-03 3.144669e-03 3.005157e-01 9.728116e-06 

360番目に対応する観測値は取り除いたほうがよさげなことが分かる。

外れ値の検出

> x = Term1
> rownames(x) = 1:nrow(x) # 行名を"1から275"に変更
> x[rownames(Term1)=="360",]
    EDUCATION   LNFACE LNINCOME NUMHH
197        17 14.57163 5.560682     4
> # 197番目の観測値が外れ値の候補となった!

ダミー変数による外れ値の処理

> x = rep(0, 275)
> x[197] = 1
> Term1$d197 = with(Term1, x) # 197番目以外は0のベクトル
> Term1.kaiki2 = lm(LNFACE~EDUCATION+LNINCOME+NUMHH+d197, data=Term1)
> summary(Term1.kaiki2)

Call:
lm(formula = LNFACE ~ EDUCATION + LNINCOME + NUMHH + d197, data = Term1)

Residuals:
    Min      1Q  Median      3Q     Max 
-5.8399 -0.8279  0.0302  0.8748  4.9129 

Coefficients:
            Estimate Std. Error t value Pr(>|t|)    
(Intercept)  2.04945    0.84925   2.413  0.01648 *  
EDUCATION    0.18433    0.03882   4.749 3.33e-06 ***
LNINCOME     0.57489    0.08043   7.148 8.25e-12 ***
NUMHH        0.28237    0.06272   4.502 1.00e-05 ***
d197         5.06235    1.58934   3.185  0.00162 ** 
---
Signif. codes:  0***0.001**0.01*0.05 ‘.’ 0.1 ‘ ’ 1 

Residual standard error: 1.5 on 270 degrees of freedom
Multiple R-squared: 0.3664,	Adjusted R-squared: 0.357 
F-statistic: 39.03 on 4 and 270 DF,  p-value: < 2.2e-16 

d197のt値が有意ということは、197番目の観測値がほかの観測値とは異なる(=外れ値)であるということを意味する!
・・・というわけで、回帰診断その1はここまでです。

フロイト「集団心理学と自我分析」のまとめ

Freud, S., 1921, Massenpsychologie und Ich-Analyse, (藤野寛訳「集団心理学と自我分析」, 『フロイト全集 17』, 岩波書店, 129-133, 2006年)

  • I 緒言
  • II ル・ボンによる集団の心の叙述
  • III ル・ボン以外の集合的な心の生活の評価・検討
  • IV 暗示とリビード
  • V 二つの人為的な集団 教会と軍隊
  • VI これに続く課題と仕事の方向性
  • VII 同一化
  • VIII 恋着と催眠状態
  • IX 群棲欲動

※2011年のはじめにノートにまとめたものをデジタル化してみました。頁数は全集のものです。
I 緒言

 「両親や兄弟姉妹、愛する人や友人、教師、医師に対する関係においては、個人が経験するのは、
いつもただ一人の、あるいは、きわめて少数の人間からの影響にすぎない。」130
  →「それらの人たちの各々が個人にとって重大な意義を獲得している。」130

 ▼2つの方向性(予想)
  i)社会的欲動―群棲本能(herd instinct)、集団の心(group mind)―は、決して根源的でも
それ以上分解不可能でもない。
  ii)社会的欲動が形成される発端はもっと狭い範囲(家族など)に見いだされる。
 ←→社会心理学では、個人が多数の人間から同時に影響を受けると想定。

II ル・ボンによる集団の心の叙述

 ▽「個人が、特定の条件のもとでは、その人から予想されるのとはまるで違った風に感じ、考え、
行為するという驚くべき事実」132
  特定の条件:「『心理的な集団』という特性を獲得するに至った人間の集団に組み入れられる」

 ▼3つの問い
 (1)「集団」とは何であるのか?
 (2)個々人の心の生活にそれほどにも決定的に影響を及ぼす能力を、集団はなにによって獲得するのか?
 (3)集団が個々人に強いてくる心の変化は、どの点に存ずるものなのか?

 (3)集団が個々人に強いてくる心の変化は、どの点に存ずるものなのか?
  ▽もし、集団の中で個人が一つのまとまりへとたばねられているのだとすれば、
そこにはきっと彼らを互いに一緒に拘束する(binden)何かが存在する。
   →この「拘束する何か」が集団にとって特徴的な何かである。

  ▼集団の中に身を置く個人が示す主要な特徴
  ・平均的な性格:「個々個々のもとできわめて多様に発達してきた心的上部構造は取り払われ無力化され、
誰に会っても同質の無意識の土台が力を揮うようになる」134
   →「社会的不安」を核とする良心が消滅し、無意識の欲動の蠢きへの抑圧を払いのけることを許す。
  ・伝染:集団の個々のメンバーが相互に及ぼし合う影響
  ・集団内部の暗示現象:集団にとって催眠術師の代わりとなる人物
  ・個人が集団の中に埋没することによって経験する知的な働きの低下

 ▽「ル・ボンによる集団の心のスケッチ」138-44

III ル・ボン以外の集合的な心の生活の評価・検討

 ・ル・ボン:i)集団の中では、知的営為が集合的に制止される。 ii)集団の中では情動が昂進する。
 ・ル・ボンの独創:iii)無意識についての見解。iv)原始人の心の生活との比較。
 ・集団の心への高い評価:v)集団の道徳性が、事情次第ではそれを構成する個々人の道徳性より高いものとなりうる。
      vi)全体へとまとまった人々しか高度の非利己性や献身への能力を示すことはない。
 ★これらは、「一時的な利害関心に基づいて様々に異なる個人から大急ぎでまとめ上げられた」147 集団についての考察(e.g.フランス革命)
  →安定した集団あるいは社会形態はどう評価・検討されるか?

 ▼マクドゥーガル『集団の心』, ケンブリッジ, 1920年
  ・人間がたまたま吹き寄せられて群衆(crowd)となった状態から、
そのメンバーたちの間に心理学的な意味での集団の形成の条件
   →メンバー間が互いに何かを共有する
    i)ある対象への共通の関心
    ii)ある状況下で感情が同一の方向に向かうこと
     →互いに影響を及ぼし合う一定程度の能力

     ★この能力による<<精神的同質性>>[条件]
   →<<情動の昂揚あるいは強化>>[条件]

    ・「無制限に自らの情熱に身を委ね、その際集団の中に埋没したり、個人として限界づけられているという感情を失うことが、当人にとっては、喜ばしい感覚なのだ。」148
     →これを「感情伝染」から説明

      ・自動的に起こる強迫
      ・個人の情動が相互の誘発によって高まり続ける
      ・「他の人と同じように」「多くの人と調和する」といった強迫が作動
       →新しい権威の担い手となる!
        →新しい権威への服従:多くのことが制止される。
「良心」の活動を停止することが認められる。
制止を棚上げにすることで確実に達成される快の獲得という誘惑に属することが許される。
確たる自己意識も自尊心も責任感もなくなる。
         →集団は子供や野蛮人のように振る舞う。
     ←→これらの欠点を取り除き、心の生活をより高い水準に引き上げ、「高度に組織化された集団」とするには?

▽高度に組織化された集団を形成する主要な5条件
	1.集団の存続の一定の持続性
		→「地位」の割り当て
	2.集団内の個人に、集団の本性、機能、鋭意、要求について一定の表象が形成されること
		→個人にとって集団に対する感情的関係の発生
	3.類似した集団とのライバル関係
	4.メンバー相互の関係に関わるような、伝統、習慣、行事を持つこと
	5.割り当てられる仕事に関して、種別化・細分化による組織体系が存在すること

	<課題> 「個人に特徴的であったのに集団形成のせいで個人の中から消え失せてしまった特性を、
集団にも作り出してやること」151

IV 暗示とリビード

<問い>
「集団の中で個人の情動性は法外に高められ、知的鋭意は目に見えて制限される」のはなぜか?
	→「何故われわれは、集団の中では判で捺したようにこの伝染なるものに従うのか?」

<主張>
「集団が及ぼす暗示的影響こそが模倣の性向に従うようわれわれに強要し、この情動をわれわれのうちに誘発する」154
	→「暗示されやすさこそ、人間の心の生活の、それ以上何ものにも還元不可能な、根源現象、基本事実である」154

→「暗示というものの背後に隠されている」「愛の関係」(=感情の拘束)がある
	1.集団をまとめ上げる力はリビードであると考えられる
	2.個人が独自性を放棄し、他者による暗示にかかるにまかせるのは、「彼らへの愛から」と考えられる
	・・・という着想の上に、この主張を基礎づける

V 二つの人為的な集団 教会と軍隊

教会と軍隊――高度に組織化され持続的で人為的な集団
・人為的な集団
	→集団を解体から守り、構造面での変化を遅らせるために外部から一定の強制が加えられる
・このような集団にまかり通っている「まやかし(錯覚)」
	→首長(キリスト、隊長)が集団のすべての個人を等しい愛情を持って愛している
	★すべてはこのまやかし(錯覚)にかかっている!
	・教会:それぞれの個人がキリストに拘束されていることが、彼ら相互の拘束の原因でもある
	・軍隊:それが集団の階層構造から成り立っている

軍隊のリビード的構造と戦争神経症
・軍隊のリビード的構造は集団の階層構造から形成される
	1.隊長は自分の兵隊皆を等しく愛する父親であって、だからこそ兵隊たちは互いに戦友なのである
	2.大尉の一人一人が、彼の舞台のいわば隊長にして父親
	3.下司官一人ひとりも、彼の小隊の隊長にして父親
	→このリビード構造の軽視が戦争神経症の一因となった
	「戦争神経症とは、その大部分が、軍隊の中で自分に割り当てられた役割に対して個々人が示した反発であった」162
	※一兵卒が上官から心ない仕打ちを受けたことが病因の上位

集団の本質は、集団の中にあるリビード的拘束のうちに存する
・パニック現象からの示唆
	…その集団が壊れていくとき、不安があまりにも大きくなってしまった結果、
他者への配慮や拘束がかなぐり捨てられてしまう
	→不安がなぜそれ程にも巨大になるのか?
		…パニック的不安は、集団のリビード的構造が緩んでしまったことを前提とし、
その弛緩へのもっともなやり方での反応

		※危険に対する不安のせいで集団のリビード的拘束が壊れてしまったという話ではない!

	★パニックは、全員に襲いかかる危険の増大か、あるいは、集団を一つにまとめ上げる感情の拘束が
断たれることによって起こる
	※これは「神経症的不安」に対応している

集団は、先端部を割ったときのボローニャ瓶のように粉々に飛散する
ガイ・ソーン『暗くなること』における宗教的集団の解体とその帰結

・宗教集団の解体において現れ出てきているのは、「不安」ではなく、「他の人々に対する容赦のない敵対的衝動」である
	※これは、キリストの平等な愛のおかげで、表面に現れることができなかったもの

VI これに続く課題と仕事の方向性

・人為的集団を拘束する二種類の感情
	1.指導者への拘束 ※重要な役割!
	2.集団化した個人相互の拘束
	→これらの拘束が作り出されていない間は、いまだ集団ではない!

・指導者を持つ集団と欠く集団の相違は?
	1.指導者を持つ集団のほうがより根源的でより完全な集団ではないか?
	2.他の集団にあっては、指導者は、理念という抽象的なものによって置き換えられているのではないか?
	3.共通の性向や多数の人々が与っている欲望も、同じ代替のはたらきをしているのではないか?
	※理念と指導者の関係は?
	
・集団を特徴付けるのはリビード的拘束
	・ヤマアラシのジレンマ
	・比較的長続きする二者の親密な感情的関係
		→拒否的で敵対的な感情の澱をふくんでいる
		※抑圧のおかげで知覚されないに過ぎない
		この抑圧は複数の人間が団結してより大きな単位にまとまるときに解放される

・感情の両価性
	・他ならぬ親密な関係故に利害葛藤のきっかけもまた幾重にも重なっている
	・ナルシシズムの表現
		「ナルシシズムは自己主張をめざすもので、少しでも自らの個人的発達からの逸脱が起こると、
まるでそれが自分に対する批判を、そして、自分を作り替えろという要請を伴っているとでも言わんばかりに
振舞うのである。」170
		→「人間のこの振舞いの中には、憎悪への用意が、攻撃性が告知されているのであり、
その由来は知られておらずとも、それが人間の基本的な性格であることは認められてよいだろう。」170
		★「ところが、こういった非寛容のすべてが、集団形成によって、そして集団の中では、
一時的あるいは持続的に消失する。」170
		=「個人はまるで自分たちが同型の存在であるかのように振舞い、他人の独特さを我慢し、
その人にあわせ、その人にいかなる反発も感じない」1701 ※ナルシシズムの制限!
		→これは「他人に対するリビードの拘束」を契機として起こる
		★利害関心に基づく共同性も、協力関係の場合は仲間同士の間にきまってリビード的拘束が生み出される
		
・「ただ愛だけがエゴイズムから利他主義への転換という意味で文化要因として働いてきた」1723
	※そこでの愛は、助成に対する性愛には限定されない
	★それは、共同の仕事と結びついて生まれる、脱性愛化され昇華された他の男性に対する同性愛を含む 172

・集団形成の本質が、集団のメンバー相互間における新しいタイプのリビード的拘束のうちに存する
	∵ナルシス的自己愛の制限という、集団の外部では作動しない現象が示唆している
	→このリビード的拘束とは?
		1.欲動が性的目標から逸らされる事態
			→恋着(Verliebtheit)の度合い ※自我の一定の損傷を伴う
			→集団内における拘束へと転移可能な関係を恋着の度合いに見いだせるのではないか?
		2.他の機制としての「同一化」
			→しばらく主題を離れて「同一化」の研究を!

VII 同一化

▽同一化は精神分析において他の人格への感情的拘束の最も初期の発見
・同一化は、エディプスコンプレックスの前史の中でひとつの役割を演じる。
	=彼は父親を自分の理想とする(お父さんのようになりたい、お父さんのようでありたい、代わりをつとめたい)
	※この態度は、受動的姿勢、女性的姿勢とは何の関係もない、「すぐれて男性的なもの」
	→エディプスコンプレックスと相性がよく、その下準備をする
	・この同一化と同時/それ以前に、依託型に従って、母親に対する正式の対象備給をはじめる。

★彼は心理学的に異なる二つの拘束を示す
	1.性的な対象備給→母親
	2.模範への同一化→父親
	→心の生活が統一に向かうプロセスでこの両者は出会う

		→エディプスコンプレックスの成立
		1.男の子は、母親を得ようにも父親が邪魔していることに気づく
		2.父親との同一化はいまや敵対的な色調を帯び始める
		3.母親に対する関係は父親に取って代わりたいという欲望と一つになる

▼同一化は始めから両価的なのであって、
	1.情愛の表現に変わりうると同様、
	2.除去への欲望にも変わりうる
	※同一化は……口唇期のひとばえであるのかのように振舞う

▽父親との同一化がたどる運命
・後に視界から見失われうる
	→エディプスコンプレックスの逆転が生じうる
	=女性的な姿勢の中で、直接的な性欲動が充足を期待する対象として父親が選ばれる
	→父親との同一化は、父親への対象的拘束の先駆けとなる
	★父親が、そうありたい存在から、それをもちたい存在へ
	=拘束が、自我の主体において着手されるか、客体において着手されるか
	∴同一化は、どんな性的対象関係にも先立って既に可能

▼部分的で極めて限定された同一化――対象選択の同一化への退行
・「咳」込む少女の症例
	―この咳は母親と同一の症状(=同一化)
	→この母親を敵視し、それに取って代わりたいという願望
		―症状は、父親を対象とする愛を表現
		※罪責意識の影響が症状にみられる

	★「同一化が対象選択の代わりになった。対象選択は同一化に退行したのだ」175
	※抑圧が起こり、無意識の機制が支配しているところ(症状形成がなされる状況)では、
往々にして、対象選択が再び同一化となる
	=自我が対象の性質を帯びるようになる

	★この同一化にあっては、自我は愛していない人物を模倣する場合も、愛する人物を模倣する場合もある
	※どちらの場合も同一化は部分的で極めて限定されたもので、「対象となる人物のただ一つの特徴しか借りてこない」176,7

▽同一化が、模倣される人物に対する対象的関係をまったく捨象してしまう
	・「秘密のラブレター」→ヒステリーの心的感染
	→同じ立場に身を置くことができる、もしくは置きたいと欲することに基づく同一化の機制
	→他の少女たちも秘密の恋愛関係を持ちたい
	→罪責意識の影響のもと、それと結びついた苦しみまで受け継ぐ
	※心的感染は同情から起きた、のではなく、同情は同一化が起こってそこからようやく成立する
	→「症状を通してのこの同一化は、そういうわけで、両者の自我が重なりあう場所を示す目印になっている」176

■要約
1.同一化こそは対象への感情拘束の最も根源的な形態である
2.同一化は退行的な経過をたどり、いうなれば、対象を自我の中に取り込むことを通して、対象へのリビード的拘束に対する代替物になる
3.同一化は、性欲動の対象ではない人物との間にであれ、共通点が新たに知覚される度ごとに成立しうる
※この共通点が重要であればあるほど、それだけ一層この部分的同一化は首尾よく行われ、新たな拘束の端緒になる

★集団化した個人の相互の拘束は、重要な情動的共通点に基づく同一化を本性とする
	※この共通点は、指導者に拘束されることのうちに存在する

★「対象の影が自我の上に落ちてくるのだ」179――対象の取り込み

★元来のナルシシズムの相続人としての「自我理想」という審級

★同一化は、共有された実体を承認することに基づくケースもある

★集団化した個人の相互の拘束は、重要な情動的共通点に基づく同一化を本性とする
	※この共通点は、指導者に拘束されることのうちに存在する

★「対象の影が自我の上に落ちてくるのだ」179――対象の取り込み

★元来のナルシシズムの相続人としての「自我理想」という審級

★同一化は、共有された実体を承認することに基づくケースもある

▼「自我理想」
・機能:自己観察、道徳的良心、夢の検閲、抑圧に際しての主要な影響
・発生:「その審級は、子供の自我がその中で自足していた元来のナルシシズムの相続人である。
それは周囲の影響を受け、周囲から自我に向けられる要請を徐々に受け入れていくのだが、
自我の方では常にその要請に応えられるとは限らない。その結果、人間は自分自身の自我に満足できない場合でも、
自我とは区別された自我理想の内に満足を見出すことが許されるようになる」178,9

VIII 恋着と催眠状態

▼性的過大評価(理想化)の問題
・恋着にあっては対象に向かって、より大きな度合いのナルシス的リビードが溢れ出している
→対象が自分の自我のように処遇されている

=対象が、到達できない自分の自我理想の代わりをする

★「対象は自我の代わりに置かれるのか、それとも自我理想の代わりなのか」185

・同一化:対象を取り込んだ分だけ自分も豊かになった
・最高度の恋着:自我は貧しくなった。対象に身を捧げ、自らのもっとも重要な部分に代えてその対象を据えた

▽集団のリビード的構成のための定式
・一人の指導者をもち、過度の「組織化」によって二次的に一個体の性質を獲得できるのに至ったのではない集団(=一次的集団)
・「そのような一次的集団は、同じ一つの対象を自我理想の代わりに置き、その結果、
自我が互いに同一化してしまった相当数の個人からなる」188
→個人における自立性と自発性の欠如や、個人の反応と他のすべての人のそれとの同質性(集団化した個人への転落)の説明には十分

IX 群棲欲動

・「依存」:個人の散発的な感情の蠢きや、人格的で知的な行為があまりにも弱すぎて、
単独では効力を発揮することができず、他者の側から同種の反復によって強化されるものを
当てにせねばならないような状態

・「子供部屋や学校の教室の中で嫉妬心が集団感情へと変換され代替される」193
	→社会の中で共同精神、団体精神等々として働いているものも、元来は妬みに由来する
	=「誰一人目立とうと欲するべきではないし、各人が同じものであり、同じものをもつべきだ。
人は自ら多くのことを諦め、そのことによって他の人々もまたそれを断念せねばならなくなるようにすること、
あるいは同じことだが、それを要求することが出来なくなるようにすること」194
	→これが「社会的正義」であり「平等への要求」となる
	→社会的良心と義務感情の根である
	
・対等な処遇が首尾一貫して行われるように要求される
★「社会的な感情」の発生
	最初は敵対的だった感情が、同一化を本性とする肯定的に強調された拘束へと方向転換された結果、
「社会的な感情」が生まれる
	→この変換は、集団の外部に身を置く人物との情愛のこもった共通の拘束の影響下に実行される
	※集団の外部に身を置く人物とは、たとえば、両親(←子ども)、学校(←児童)、歌手(←ファン)
	★人間とは「群族をなす動物」
		→「すべての個人は互いに対等であるべきだ。しかし、彼らは誰もが一人の人に支配されることを望むのだ」195