ベイトソン著/佐藤良明訳(2000)「サイバネティクスの説明法」(『精神の生態学』所収)

ベイトソンの『精神の生態学』は当時の私には安くない本で、「大学の卒業記念に」と大型書店で購入したのを覚えている。もう10年以上昔のことになってしまった。

「イルカはどのようにして新しい芸を学ぶのか?」という話(「ダブルバインド1969」)を囚われるように学部の後半に読んでいた。20代初頭の私の頭にベイトソンの話は刷り込まれていて、私の知の地層を一番下で支えている。

この度、そのベイトソンを研究で使おうと目論んでいる。長続きするつながりとはなにか?を明らかにしたい私の研究で、彼の議論は大きなヒントをたくさんくれるのだ。

この論文ではサイバネティクスによって現実の現象を説明するための道具を用意してくれている。

まずは「コンテクスト」だ。「地域のコンテクスト」などと言われて「?」となった記憶がたくさんある。

ひとつの音素は、単語を構成する他の音素との組み合わせにおいてのみ、音素として機能する。このとき、単語が音素の「コンテクスト」になっている。しかし単語は「発話」という、より大きなコンテクストの中でしか単語としての「意味」を持たない。そして発話もまた、当事者間の関係性の中でしか意味を持たない。(536)

 コンテクストとは、包含する事物や出来事に意味を与えるものなのだ。だから、

コンテクストがコミュニケーションを支える。コンテクストがなければ、コミュニケーションが成り立たないのである。(536,7)

ということが言える。

サイバネティクスの視点はマクロだ。だから、「現象界の全体を、因果関係とエネルギー授受関係のネットワークとして想起する(538)」。

このとき、個々の事物がどのように動きうるかという選択肢を考える。そのときに、「どのようにその選択肢は狭められているのか」という拘束という視点から考えると、

  • 確率の経済からくる拘束
  • フィードバックに関連する拘束
  • 冗長性に関連する拘束

という3つの拘束がある。

第一の確率の経済からくる拘束はこう説明されている。

ふつうは“エネルギー切れ”になるだいぶ以前の段階で、“経済的”な限界というべきものが訪れる。すなわち、反応者が物理的に動けなくなるのではなく、対処すべき行動の選択肢が使い果たされて反応がストップするのだ。(538) 

 第二のフィードバックによる拘束については、こんな例が示されている。

回路の任意の地点にある変数を考え、この変数の値が(回路外の出来事の衝撃などによる)ランダムな変化によって上下すると仮定する。そして、このランダムな変化が一定時間後、因果の連鎖を一周して元の地点に戻ってきたときに、当の変数値にどう作用するかを考える。その作用は明らかに系の特性にしたがったものになるはずだ。すなわち、ランダムなものにはなりえない。

因果の循環系にランダムな出来事が生じた場合、その出来事が起こったその地点でランダムでない反応が生み出されるのである。 

 たとえば、私とあなたの関係という因果循環において、第三者からよく分からないことを言われたとして、私とあなたの間で話し合ううちに、よく分からないことが分かることに変換されていっているということだろうか。

私とあなたの安定した関係という確率的にきわめて稀な事態が観察された場合、どんな拘束のはたらきでその稀な状態がつくりだされているのかを示すのが、サイバネティクスの説明法なのだそうだ。

第三に、冗長性による拘束だ。

まずは、冗長性の定義が確認される。たとえば「ありが うございます」という文章をみたときに「と」が抜けていることをランダム以上の確率で推論できるのは、そこにくる文字の可能性を絞り込むパターン化の作用があるからだ。文章は冗長性を生むのだ。

ベイトソンは、パターンと冗長性をこう定義する。

パターンとは、全体が観察できないときに、遮蔽された向こう側に何があるか推測することを許すものごとの集合である。(542,3)

こうした「パターンの卓越の程度」、言いかえれば「出来事の集団の中である特定の出来事が起こる予測の容易さの度」が、「冗長性」の名で呼ばれるものである。(541) 

以上が3種類の拘束の内容である。なにか稀なこと(仲の良い二人が仲良くいつづけるとか)が起きているときには、この3つの拘束が働いているはずなのだ。これから考えてみたい。

ここでベイトソンは突然、コミュニケーションの本質について語りだす。 

パターン化を強め、予測可能性を増すことこそがコミュニケーションの本質であり、その存在理由であって、何の手かがりにも付き添われない文字が、最大の情報量を持って、一個ポツンとそこにあるというのは、珍妙で特殊なケースだとも考えられるのである。 (541,2)

 さらに、

実際、コミュニケートするとは、冗長性とパターンを産み出すことと同義ではないだろうか。(542) 

これが本当だとしたら、私たちが日々仲良くなろうと続けるコミュニケーションの果てには新奇な風の吹かない冗長性とパターンに満ちた退屈しかなくなってしまう。そんなのは嫌だ。

ベイトソンの胸中にもそんな思いがあったのかもしれない。この論文は最後にとても意味深なセンテンスで閉じられている。

情報でなく、冗長性でなく、かたちでもなく、拘束でもないものは、すべてノイズである。 ノイズこそが新しいパターンの唯一の発生源である。(546)

「新しい」という言葉が出現している。冗長性に満ちた世界が理想なのであれば、新しさなどは敵でしかない。コミュニケーションは冗長性を産み出すものだとしたら、私たちには、コミュニケーション以外のつながり方が必要なのだ。そのヒントを与えてくれるのが、新しいパターンの発生源であるノイズだ。

私は、あなたとのつながりはノイズと冗長性との間で揺れているからこそ楽しいのだと思う。