佐藤俊樹(2010)「第1章「情報化社会」とは何か」(『社会は情報化の夢を見る〔新世紀版〕』)

第1章で扱われている問題は「『情報化社会』とは何か」である。この問題に対して本書は、「情報化社会」は空虚な記号であり、技術予測の名を借りた未来社会への願望にほかならないと断じる。

 まずこれを示すために、「情報化社会」は実体が存在しない空虚な記号であるということの証拠として、(a)繰り返し何度も「情報化社会がやってくる」という言説が流行しては消えていくこと、及び、(b)主張に隔たりのある2つの「情報化社会」論が共存できていることという2点を挙げている。

 次に、「情報化社会」は実体がないのになぜ私たちにリアリティを感じさせてしまうのか、という問題を取り上げ、情報化社会論が技術予測に基づいて社会予測を行うという点に注目する。一般に、技術予測はニーズとその背後にある社会の仕組みという要因を無視することはできない。しかしながら情報化社会論は、「社会はこうなるはずだ」という未来社会のイメージを密輸入してきて、そのイメージにあわせて技術予測をやっていると指摘されている。

 そして、この未来社会のイメージを作り出すものとして「AI的アナロジー」を取り上げている。これは例えば、インターネットの「自立・分散・協調」という技術特性に未来社会のイメージを重ね合わせてしまうといったことを指している。このアナロジーは社会の仕組みも情報技術の仕組みも共に人間の神経系をモデルとしているという同形性から生じる。この同形性によって、あたかもテクノロジーが高度化すれば社会の仕組みも進化するように見えてしまうのである。また、システム社会論やメディア社会論もこのAI的アナロジーは罠に陥ってる議論であると指摘している。

 以上から本書は「情報化社会」について、こう結論付ける。

技術が社会の中でどう使われるかという視点もなければ未来社会イメージがどれだけ妥当なのかという視点もない。技術の使われ方の自由度という問題は未来社会イメージの心理的説得力によって隠蔽され、未来社会イメージの妥当性という問題は技術発展の必然性という装いによって隠蔽されている。社会の夢と夢の技術がお互いに支え合うことによって、お互いを何か確固としたものであるかのように錯覚させているのである(p.74)

この錯覚メカニズムから得られる教訓として、具体的な技術のみを扱い、社会的な文脈に注目し、理解可能な事柄に限定した議論をすべきであることを示している。