小林康夫(2015)「2-1 皮膚の哲学をもとめて」(『君自身の哲学へ』)

自他の区別が今大きく揺らいでいる。(74頁) 

 私とその他の事物との境界は皮膚だ、というのは当たり前のような気がするが、この本を読むまであまりそうには思ってこなかった。誰かの肩に手のひらを載せるとき、触れているのは確かに皮膚だ。皮膚なのだけれども、そんな物質的なものではない、もっと精神的なものを感じていたのだろう。もっと揺らぎやすいなにかのような。

この節の導入ではアトピー性皮膚炎が取り上げられる。皮膚という場所で起こる免疫系の不全の例としてだ。免疫系とは身体の内部で自己と他者とを認識して自己をバランスさせるシステムだが、アトピー性皮膚炎では、その認識に間違いが起きて、自分自身を過度に攻撃してしまう。小林は、アトピーのような免疫系の不全がもっと精神的な領域でも起きているのではないかと問題提起する。

自―他のあいだの境界の膜の透過性が非常に高くなっていて、そのことによってわれわれは、これまでのどの時代にも増して、きわめて鋭敏になっていると。/透過性というのは、傷をつくらずに、侵入してくるみたいなこと。(78頁)

 小林はここで情報社会を例に出して、様々な情報が傷をつくらずに膜を透過してきて人々の免疫システムを不全にしているのではないかという論を立てる。自我の主戦場は境界にこそあるというわけだ。

自我は皮膚にこそあり(84頁) 

 私とあなたという二人がいるときに、免疫システムが不全な私の皮膚は、傷を負わずともあなたを受け入れるのだろうか。それはとてもロマンチックにも聞こえるけれど、不特定多数に対して皮膚がなんでも受け入れてしまうのは恐ろしい話だ。満員電車で触れた人々を受け入れたくなどはない。膜を透過させたくはない。

そうすると、皮膚を厚くする戦略がやはりよいのか?透過しづらい膜をつくる。これは引きこもりに向かう方向だ。引きこもりになって誰とも接しなければ幸せかといえばそれは違う。皮膚を厚くしても薄くしてもそれ相応のつらさが待っている。

自―他のあいだの関係が両義的に、曖昧になっていく、しかし同時にそれゆえに、いっそう孤立していく存在の在り方。(93,4頁) 

 小林はここで前回取り上げたブリコラージュ的装置の話への接続を試みているが、私にはそのつながりはよく分からなかった。

私は他人に触れられるのは基本的に嫌だ。相当親しい仲でない限り身体がびくっと嫌な反応をしてしまう。そのくせ、仲が良くなるとべたべた触りたがる。皮膚に関する態度がまさに両義的なのだ。良くも悪くもあるという問題に対しては、これという解決策が取りづらい。ただ、皮膚に注目するという観点を与えてくれたという意味で、この節は記憶に残っている。