小林, 康夫. (2015). 「第1章 ブリコラージュ的自由のほうに」. (『君自身の哲学へ』)

この章の第2節「自分だけのスタイルに向かって」では安部公房砂の女』で、昆虫採集を趣味にしている青年が砂原の窪地に落ちてしまい出てこれなくなってしまう場面が取り上げられる。これは前節の「井戸的実存」の話の続きである。ここで青年はカラスを捕まえるために奇妙な装置をつくる。カラスの脚に「助けてくれ」というメッセージをくくりつけるためにだ。青年はこの装置を《希望》と呼んだ。この本の問題はこの《希望》とはどのように手に入れられるのか、ということだ。

まず、奇妙な装置を彼がつくるという場面で生じている自由が問題とされる。

われわれがありきたりの与えられたものの組み合わせを通じて、そのつど自分にとって必要な装置を自由に組み立てていくというところに、人間がもっている根源的な自由というのがある。(49頁) 

レヴィ=ストロースが言ったようなブリコラージュこそが自由ということだ。ここで小林はブリコラージュに実存という概念を絡めてくる。実存とは、僕の師匠は、自分にとって最も大事なことはなんぞやと問うことだと言っていた。

自分自身の実存のブリコルール(bricoleur)、つまり「器用仕事する人」になる、というか。そして、そこに、偶然なのか、それともそうでないのか、なにか二重に括弧に入っているような《希望》というものが萌す。(49,50頁) 

自分にとって最も大事なことのための装置を、ありきたりの与えられたものの組み合せから作るとき、偶然的に《希望》が萌すというのだ。それは一体どんな装置なのか。

この装置は [...] 設計図があるようなものでもなくて、ある欲望、いや、ある願いのために、本来的には別の目的のために使うべきものがずらされて、たまたまそこにあるものからひとつのユニークな組み合わせが生まれてくるというところにポイントがある。(54頁)

おおよそ、先の引用の言い換えだが、「たまたま」生じる「ずれ」というところにポイントがあるようだ。別の箇所ではこの装置のことがこう述べられている。

みずから世界を組み換えて、創造する。それが自由ということです。[...] カラスに仕掛ける罠という他愛もないブリコラージュを生み出すという話です。ありきたりの無意味な、無価値なガラクタの組み合わせだけど、それは創造なのです。そこでは、自由が行為されている。自由の装置がつくり上げられている。(57頁)

創造による自由はどのように《希望》につながるのか。それは、創造された装置によって、出来事が到来することなのだ。出来事とは、偶然的=運命的で、計算不可能な、目的論の構造に還元されないようなもののことだ。

置かれた環境のなかでブリコラージュ的にダンスをする。そこに、純粋な出来事への待機があり、そしてそれはそのまま、ほとんど出来事そのものだ、と言いたいのです。希望とはそのようなものだ、と。(62頁) 

ダンスとはなにか。また別の箇所から引用する。

 まるでダンスのように、機能や意味に還元されない、正否の判断基準を逃れた、しかしどこか自分の実存の姿を映し出しているような「遊び」を、しかし真剣に遊ぶべきだろう、と。(66頁)

 一貫して、「なんのために?」「正しいことなの?」といった問いをずらした別の平面に《希望》の可能性が照らし出されていることが分かる。そして、その平面に行くには、真剣な遊びのダンスをすることが必要で、そこでは自分にとって最も大事な装置をブリコラージュする。なかなか難しい話に聞こえるが、単純そうでもある。

きょうはこれ以上考えがまとまらない。またの機会に追記を試みたい。