ピエール・バイヤール著, 大浦康介訳(2016)「Ⅰ-1 ぜんぜん読んだことのない本」(『読んでいない本について堂々と語る方法』)

ムジールの小説『特性のない男』に登場する図書館の司書は全部の本について識っている。それは、一冊として中身を読まずに、目録だけを読むという方法によってだった。

ムジールの司書の賢明さは、「全体の見晴らし」というその考えから来ている。私は彼が図書館について述べていることを教養一般に敷衍して考えてみたい。書物の中身に首を突っ込む者には教養を得る見込みはない。読書の意味すら疑問である。というのも、存在する本の数を考慮するなら、全体の見晴らしをとるか、それとも個々の本をとるかを選ばなければならないが、後者の場合は、いつまで経っても読書は終わらず、全体の掌握にはとうてい至らないからである。それはエネルギーの浪費でしかない。

ムジールの司書の賢明さは、まずは全体という概念の重視にあるが、それは真の教養とは網羅性をめざすもので、断片的な知識の集積に還元されるものではないということを示唆していると考えられる。この全体の探求は、さらに別の側面も持っている。それは、個々の書物に新たなまなざしを投げかけ、 その個別性を超えて、個々の書物が他の書物と取り結ぶ関係に関心を払う方向へとわれわれを導くのである。(30,1頁)

 最近、頭が回っていないせいでこの「全体の見晴らし」が頭の中に描けない。頭の中に地図を描きながら街を歩くのではなく、目の前の景色だけを頼りに歩いている。いや、歩けてすらいない。全体の見晴らしが手に入らないとどちらに向かっていいのか分からないのだ。立ち止まっている。全体を見渡す能力というのは頭のいい人にだけ与えられたものなのだと知った。

論文を書く行為の大半は、30本以上の論文を頭の中でミックスして調理して新しい文章を組み上げることに捧げられる。まさに全体の見晴らしを手に入れられないと30本の論文を適切な場所に並べてつなげることができない。個々の論文が他の論文と取り結ぶ関係が分からないと、自分の論文がどこへ行くのか方向づけることができない。これは非常に難しいことなのだと知った。

歩けないのだ。無理に歩き回っても道に迷うばかりでどこへも行けない。とりあえず一歩を踏み出せとはいうが、それが間違った道への一歩だったなら無駄でしかない。全体の見晴らしが必要なのだ。地図を手に入れずに旅に出るのは愚かだ。道草や寄り道は全体の見晴らしを知った上で、あえて違うことをするときにだけ特別な価値がある。全体への反逆だ。それは全体の見晴らしを既に持っていることを前提とした行為だ。

歩くには地図を手に入れるしかない。その地図は自分で描くしかない。描くためには頭が回ってくれないとどうしようもない。頭が回るには、と試行錯誤している。締切が近づいてくる。あと15日。焦っても仕方がない。ただじっと待つのだ。

このブログの最近の記事も、引用だけしかできなくて、その引用は自分の知識の中にどう位置づけられるのかをぱっと把握して新たに方向付けられた自分について書くことができなかった。頭の回転なのだ。こんなに見晴らしの悪い世界を生きている人も沢山いるのだろう。そりゃあ読書も勉強も楽しくないはずだ。本に書かれていることそれ単体には面白さはない。面白さは、それが私の「これまで」と絡み合って私を導くことからやってくるのだから。

はやく、回復してほしい。