「序論 世界を考える道具をつくろう」(『文化人類学の思考法』、2019年)

序論では文化人類学がなにを目指している学問なのかが説明される。目を引いたのはこの箇所だ。

〔フィールドワークという身体的経験〕には、ある種のカルチャーショックをともなう身体経験を介して、既存のことば=概念がとらわれてきた世界認識を刷新したいという思いがある。(4頁) 

 概念によって私たちは作られている。「男」という概念は「男」というカテゴリーを作り出している。そうして作り出されたカテゴリーには規範が生まれる。「男らしさ」というものだ。それだけではない。「男」というカテゴリーは通常「女」というカテゴリーとの差異から捉えられる。両方のカテゴリーの間には頑然たる境界があるかのようにして、私たちの世界は作られ、私達自身もその世界認識によって自身を作り上げてきた。

街でみかける外国人について、「◯◯人は✕✕だ」と感じることがあるかもしれない。このとき同時に「✕✕ではない私たち」という自己イメージをつくりだし、維持しようとしている。(5頁) 

 この例にはぞっとした。出来の悪い学生を非難する時に、同時に私は「出来の悪くない私」という自己イメージをつくりだし、維持しようとしていたなんて!浅ましいな、と思う半面、差異なしにはなにごとも認識できないのだから、仕方ないじゃんとも思う。しかし、先に出した男女の例でいえば、男/女というスラッシュの入れ方、差異の作り方が本当に適切なのか?と問うていくことが文化人類学的な営為なのだろう。私は男性性というものが好きじゃないので、非難することが多いが、そうすることでポリコレ的に正しい私を演じているのかもしれない。情報とは差異をつくりだすものだと理解していたが、その差異がどう作り出した本人にも作用するのかは考えていなかった。難しい。

差異は、はじめからそこに「ある」ものではなく、自分たちとそうでない者たちの区別をつくりだす相互作用のなかで「つくられる」。文化人類学は、その差異を説明することの難しさ、危うさを認識したうえで、彼らと私たちとの間の関係について思考をめぐらせてきた。 (5頁)

 私にはまだ差異についての思考をめぐらせる道具立てが足りないことがわかった。この本を通じて、『文化人類学の思考法』を手に入れていきたい。