土居健郎(1971)『「甘え」の構造』

「甘え」とは何か。まずはその定義から確認したい。

「甘え」は親しい二者関係を前提にするとのべた。一方が相手は自分に対し好意を持っていることがわかっていて、それにふさわしく振舞うことが「甘える」ことなのである。(3,4) 

 土居はこの「甘え」という概念を引っさげて、日本語という言語とその言語のつくりだす日本社会、ひいては私達の心理にいかに「甘え」が潜んでいるのかを明らかにしようとする。

「甘え」にとって肝心なのは相手の好意が分かっていることであって、相手に受け容れられないのではないかという恐怖がある場合にはうまく「甘え」ることができない。第一章の「甘えの語彙」の節では「気がね」という言葉について「『気がね』は通常相手に遠慮する気持をあらわすが、それは相手がこちらの甘えをすんなりと受け容れてくれるかどうかわからないという不安があるから」(48,9)と分析される。他にもいくつかの語彙を検討した末に、土居は「人間関係を現わす多くの日本語がすべて先に述べたように、甘えの心理を含んでいる」(53)と結論づけているが早急なのではないか。1971年に書かれた本なので、「自由と独立と己れに充ちた現代」(197)においては事情が異なるのかもしれない。一方、義理と人情の時代には、甘えによる依存は社会生活を円滑にすることができた。

人情を強調することは、甘えを肯定することであり、相手の甘えに対する感受性を奨励することである。これにひきかえ義理を強調することは、甘えによって結ばれた人間関係の維持を賞揚することである。[...]人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。(56) 

 現代では、依存性というとネガティブな意味で使われる。「甘え」も同様だ。土居も「自由と独立と己れに充ちた現代」においては事情が異なるという趣旨のことを書いている。

甘えの挫折ないし葛藤は種々の精神的障害を引き起こす。仮に、甘えが恋愛・友情もしくは師弟愛という形で満足されたとしても安心はできない。満足は一時のことで必ず幻滅に終るであろう。なぜなら、「自由と独立と己れに充ちた現代」において、甘えによる連帯感は所詮蜃気楼に過ぎないからである。かくしてこの二人とも、もしわれわれが幻滅に悩みたくないならば、自己についての真実と孤独の淋しみに堪える覚悟がなければならない(196,7) 

 なんという手のひら返しだろう。日本文化には随所に「甘え」が潜んでいて、それが社会を回していたという「甘え」万能論を提示したのにもかかわらず、このでの主張は「孤独に耐えろ」だというのだ。なんと救いのないことを言うのだ。私達が知りたいことは、「適切な甘え」とはなにかということなのだから。

「甘え」の連帯感が蜃気楼などとは思いたくない。その反面、依存し合うことによる危険性は嫌というほど知っている。どうすればいいのか。あまり知りたいことは知ることができなかった。