東, 浩紀. (2019). 「悪と記念碑の問題」. (『ゆるく考える』.)

人間から固有名を剥奪し、単なる「素材」として「処理」する、抽象化と数値化の暴力である。人間は世界を抽象化し数値化する。それはあらゆる知の源泉である。けれどもその同じ力は、人間を限りなく残酷にもする。 (310頁)

 この暴力性に気がついているひとはどれだけいるのだろうか。東はこの力を「抽象化と数値化の暴力。その悪は素朴にはあきらかだ」(311頁)と書いているが、私たちは日々匿名の統計データの素材を支払うことで様々なWebサービスを利用しているように、自分を抽象化し数値化することになんの抵抗感もないのではないか。むしろ、「それでサービスがよりよくなるなら」と進んで自分の身を捧げていることすらあるだろう。

具体的であること。量に還元されえない質的な存在であること。日々の生活の喜びはどちらかといえばこの具体的な手触りのあるお金で買えないところにある。この喜びを剥奪する暴力といって私たちが思い浮かべられるものはせいぜい具体的な暴力なのではないか。抽象化と数値化の暴力というもの自体、とても抽象的で想像しづらい。どうやったら皆にこの暴力性を伝えることができるのだろうか。

どうにも筆が進まない。私自身、抽象化と数値化によって知を生み出すことを生業としていて、まさに人間の活動の様々な側面を数値化することで生計を立てているからだ。「私は暴力を働いている」とは思っている。しかし、それが具体的にどんな暴力なのかはしっかりと考えてこなかった。抽象的には暴力だと分かっている。しかし、それを上手く説明できないでいる。だから今日も抽象化され数値化されたデータをいじくりまわしている。

研究の世界では、量的研究と質的研究の対立というものがある。統計的手法を使ってデータからなにかを言おうとする人たちと、インタビューやフィールドワークからなにかを言おうとする人たちとの対立だ。私は前者の派閥に身を置いてきたが、いつも後者への憧れがあった。「具体的にみてみないと分からないよね」という思いがあるのだ。統計データの作り上げる「言えそうなこと」はどこか嘘くさくて現実味が感じられない。しかし、そんな嘘くさくて現実味が感じられないものこそが客観的なエビデンスとしてありがたがられる昨今の風潮がある。きっとそういう人たちは抽象化と数値化とに憧れているのだ。私とは真逆の性向である。抽象的で数値的であるほうがなんだか「知」っぽいのだろうか。私にはそうには思えない。いつも欺瞞を働いている罪の意識がある。

この罪の意識はなんなのか。抽象的で数値的な「知」によってなにか分かった気になってあれこれ人々の活動を断じていい気になってしまうことへの罪悪感か。統計データをこねくり回せば言いたいことのためにデータを捻じ曲げられてしまうことへの不信感か。私にとっては抽象的で数値的なものは不誠実なもので、具体的で非数値的なものの方が誠実なものに思われる。しかしそれは伝達が難しい。いや、伝達が難しいから大切なものなのかもしれない。

なぜ皆は平気な顔をしてマッチングアプリを使えるのか。私の性格や趣味嗜好が点数化された多次元空間で距離の近いひとがサジェストされてくる、という事実に怖気が走らないのか。なぜなのか。私がデータ化されることに喜びを感じるひとは大勢いる。それが私をどれだけ捨象しているのか、どれだけ切り刻んでいるのか。自分や配偶者の価値を年収で計るひとがいる。ひとの価値を単一の数値に還元することの暴力に気が付かないのか。

しかし「私の夫の年収は2000万円です」というような発言を好まないひとは多い。「夫を金でしかみていないのか」と思うひとは少なくないだろう。そう、これだ。これは数値化の暴力が伝わりやすそうな例だ。「私の夫は上場企業の役員です」も夫をあるカテゴリーの一部とみなす抽象化の暴力だ。夫の顔は見えてこない。夫の固有名は剥奪されている。そうか、私がこういうひとたちを嫌いな理由はそこに暴力が溢れているからなのか。

「抽象化と数値化の暴力」に対しては繊細でなくてはならない。肝に銘じて過ごすとともに、周りの人たちにもこの暴力の存在を伝えていきたい。