「「ダメ女」と「一汁一菜」」(三浦哲哉.『食べたくなる本』. みすず書房. 2019年. 77-95頁.)

土井善晴の「一汁一菜」の提案には助けられている。

料理の中で一番億劫になるのは、「夕飯どうしよう」と考えているときだ。買い出しのタイミングなどを考えるとお昼ご飯が消化しきらないうちに考え始めなければならない。端的に苦痛だ。しかし、「一汁一菜」という型が与えられているだけで、スーパーマーケットに広がる無限の食材と無限の調味料からなる無限の組合せから守ってもらえるのだ。

「一汁一菜」は、ようするに、そこにひとが戻ってこられるなにか、毎日繰り返されるということによってひとがそこから「安心」と「信頼」 を確保することができるようななにかである。(88頁)

型を守ること、それが繰り返されることから「安心」と「信頼」が生まれると三浦は述べる。おしゃべりだってそうだろう。友達ごとに違うおしゃべりの型があって、「安心」と「信頼」のためにいつものおしゃべりをするのだ。そういえば、私の好きな異国の料理を作った日よりも、伝統的な和食を作った日のほうが妻の顔は安堵しているかもしれない。今度観察してみよう。

この章で「一汁一菜」は、「手をかけた」=「愛情の込もった」という等式が崩れ、親から継承される料理の伝統が一度崩壊した後の世界で、もう一度料理の習慣そのものを立ち上げるには、という文脈で登場する。この等式は特に育児中の母親から評判が悪いように思う。しかし、この等式を悪しきものとして時として嘲笑するのが正しい態度なのだろうか。

(手の込んだ料理ほどよいという認識が変わってゆく現実は)家事労働に有無を言わさず拘束されていた女性たちの「解放」という側面を持つだろう。だが、もっとシビアに言ってしまえば、それは社会全体の貧困化の帰結でもある。(78頁)

愛情は手間に比例する関数ではない。そんなものは自己満足だ。押し付けないでくれ。そんな余裕はないんだ、というメッセージは貧しさとせちがらさに色づけられている。貧しくないほうが幸せだし、せちがらくないほうが生きやすい。だから、この等式を批判する自分は貧しくなってしまった社会によって生み出されたのだと認識していることは心の豊かさの目指す先を失わないためには必要だろう。それが「手をかけた」というものとは違う仕方だろうがなんだろうが、人生は愛情の多い方に向かっていたほうがよいと私は思う。

この章では「安心」と「信頼」と「愛情」とが語られた。型を守ることで生み出される「安心」と「信頼」に対して、「愛情」はどう生み出されるのか。手はかけない、しかし、貧しくはない愛情に至る仕方はどこにあるのだろうか。しかしやはり私は「愛情」は丁寧さから生まれると思う。炊き合わせをしろと言っているんじゃない。手順を雑にせず、食べるひとの口に入るときのことを考える。具体性に思いを馳せること。食べることから生まれる幸せを願うこと。

他方で、誰かにつくるときはまだいい。しかし、一人で食べるご飯のときに、自分自身への愛情をもっと持ちたい。つい雑なものを作ってしまう。自分が自分自身に「安心」と「信頼」と「愛情」とを与えられたら、私はもっと幸せかもしれないという像を抱こう。