千葉雅也「禁煙ファシズムから身体のコミュニズムへ」を読んで

千葉雅也「禁煙ファシズムから身体のコミュニズムへ」.『Voice』. PHP研究所. 2017年9月号. を読んだ。
(Web版も公開されていた http://shuchi.php.co.jp/voice/detail/4236

完全禁煙派や草食系、ベビーカーに文句を言うような人たちは「私とあなたの境界線を完全に引きたがる」というところが千葉さんの話で印象的だった。これを身体の私的所有であると千葉さんは位置付け、身体のコミュニズムと対比した。
この話で思い出したのは、千葉さんも念頭に置いていたであろう小林康夫『君自身の哲学へ』にあった皮膚の哲学の話だった。

小林康夫は、現代人は免疫系の不全に陥っていると診断する。免疫系とは「自己の身体の内部で、自己―他者の認識システムを作動させて、自己を自己としてバランスさせる仕組み」(74)であり、自―他の境界の膜の透過性が非常に高くなったことがその不全の原因であるとしている。つまり、情報社会における自己のコントロールを超えた情報・イメージ・異物・暴力が目に見えない仕方で侵入してくることが「外傷なき傷」を刻み、この障害を生んだのだという。その結果「免疫が弱くて癌になるのか、免疫が強すぎてアトピー的なアレルギーをおこすのかの、二者択一みたいな状態」(74)に私たちの身体は置かれているというのだ。

ここで僕の脳裏には、情報・イメージ・異物・暴力の自己コントロールを超えた不可視の侵入と「外傷なき傷」は≪溶血≫を引き起こすというイメージが浮かんだ。赤血球が、自分よりも浸透圧が低い血しょうに置かれた場合や外傷によって破裂してしまうという昔学校で教わったあの溶血だ。私たちの身体に見えない何かが大量に侵入してきていて、私たちに外傷なき傷を残しているのだとしたら、赤血球のように破裂し溶けて消えてしまうのではないか。

私たちは溶血を恐れているとしてみよう。
まず私たちにとっての浸透圧に相当するものとして≪身体のエントロピー≫というものを考えたい。エントロピーとは物事のバラバラさを表すものでランダムさの指標である。このエントロピーを用いてグレゴリー・ベイトソンはストレスを定義しており、私たちが高いストレス状態にあるときに身体のエントロピーは極端に低くなりランダムさが失われると述べている。これはちょうど、雪山で遭難した人が1から10の数字をランダムに言おうとしても「1,2,3,4,5,6,7,8,9,10」としか言えなくなると中井久夫が書いていたことと合致している。私たちの環境・外側の世界について考えてみるとそのエントロピーは高い。バラバラの人たちがバラバラになにかをしていて、バラバラの情報がひっきりなしに私たちの身体に侵入しようとしてくるのだ。これを高すぎる≪環境のエントロピー≫と表現したい。この2つのエントロピーの状態から、私たちは次のような状態にある。

  • 高すぎる≪環境のエントロピー≫の侵入によって、私たちはバラバラになって溶血する。
  • 低すぎる≪身体のエントロピー≫は私たちのランダムさを奪い、私たちはノイズに対して脆弱になる。
  • この2つを避けるために私たちは≪身体のエントロピー≫を適度に保ち、ランダムさを飼いならさなければならない。

この課題について考えるために、この2つのエントロピーから千葉さんの提出した問題を解釈してみたい。

身体の私的所有を目指す完全禁煙派は≪身体のエントロピー≫が低すぎる自己を守るために環境のノイズを極端に嫌うのではないだろうか。そのために≪環境のエントロピー≫を徹底的に排除しようとする。≪身体のエントロピー≫を改善するのではなく、環境に働きかけることで自他のバランスを取ろうとする。これは危ういやり方だ。というのは、低すぎる≪身体のエントロピー≫を自他がバランスする点にすることは無迷惑社会を導くからだ。私見だが、無迷惑社会で迷惑とされているものにはお互い助け合ったほうがよいものが多い。それを迷惑とするのは、そもそも助け合いとは同情がきっかけで起こる他者の侵入であるからだ。同情と訳されるドイツ語のMitleidが共に(Mit)-苦しむ(leid)という意味であるように、助け合いとは他者の侵入であり共に苦しむことなのだ。同情は自他の境界線を取り払う力を持っているのだ。もちろん、≪身体のエントロピー≫が低すぎる人たちはそんなものはまったく御免だろう。

対して、身体のコミュニズムは、≪環境のエントロピー≫を飼いならす戦略なのだと考えた。情報過多の時代にあっては、目を引くものを全て所有することや比較しきることは不可能だ。そこで所有ではなく「アクセス可能性」を買うという考え方がある。Apple Musicのようなサブスクリプションサービスがその一例だ。もっと社会的な諸相でもアクセス可能性を買うということはありそうだ。アクセス可能性を買っておけば、ある有限化されたデータベースの中から情報を所有することなしに選択的に取り込むことができる。選択的取り込みという免疫系の機能とデータベースの有限性を買っているのかもしれない。この購入によって、環境側にあったものを私の手の内で操作できるものに変換可能になる。≪環境のエントロピー≫を選択的に取り込むことができるようになるのだ。そしてこの取り込みによって≪身体のエントロピー≫を徐々に改善していくことで、ちょうどいい均衡点を見つけ出すという戦略だ。

以上、全面喫煙可の喫茶店でノートに書いた内容はこのようなものだった。