「喪の作業」――デリダの言葉から考えたこと

「喪の作業」

これについて書くのは何度目だろう。
それだけ喪うものが多い人生だったのか?

「彼は我々に、涙を流してはいけないなどと教え込んだりはしない。彼が我々に思い起こさせてくれるのは、涙を味わってはならないということだ。」

『涙を味わってはならない』…?

『涙を味わう』とは、自分自身に涙を流すことだ。
喪った他者への愛から涙を流すのではなく、他者を喪ったことによる自分自身の悲しみから涙を流すこと。

つまり、自分を憐れむこと。

それは、必要だ。自分自身の涙も流されるべきだ。喪に服すとはまさにそのことだ。

しかし、喪った他者への愛を忘れ、喪失感に暮れる自分自身のためだけに涙を流すことは、必要ではあるが、それに『味をしめてはならない』。

涙は他者への愛からくるべきものだ。他者への愛である涙を飲み込み味わうことは、「喪の作業」の場から他者を退場させ、悲しみの全てを《『私が』あなたを喪った悲しみ》のみに限定してしまう。

喪ったはずのあなたは、『私の』悲しみの中に矮小され閉じ込められ、あなたへの愛はねじ曲げられ、『私の』自己憐憫となる。

涙は第一には『あなた』のためだけに流されるべきだ。

私のために流す涙は流されようが、その味を好んではならない。

「『涙を味わうという行為は、つまり、他者を再併合したいという欲望であるだろう。』してはならないのは『涙を飲むこと、そして、その涙が自分自身の涙と比べて奇妙な味がするのを不安に思うこと』である」

以上は、他者を最も尊重した立場からの「喪の作業」だ。(引用部分:J.デリダ「Vジャン=マリー=ブノワ(涙の味)」)


しかし、この立場からの「喪の作業」は他者を尊重するべきという倫理的な命令のみを意味するのだろうか?

そこに、「喪の作業」による効用は含まれないのだろうか?

喪失に際して最も(病理的に)あってはならないのは、対象への愛のベクトルをそのまま別の対象へと振り向けることだ。それは永遠に充足されえない欲求だ。

「喪の作業」の根幹は、この愛のベクトル自体を消滅させることを意図したものではなかったろうか。

その作業に失敗した場合、その愛のベクトルは、行き先を求めさまよい、見つからぬ果てに、自己へ回帰する。

フロイトの「喪とメランコリー」の要旨はこうでなかったか。

この《自己への愛(リビドー)の回帰》という事態は、先ほどの「涙を飲み、味わう」という事態と同一ではないか?

となると、この《自己への愛(リビドー)の回帰》を鬱病の一病因としたフロイトの主張(この主張は私を散々悩ませたのだが)が明確になってくる。

つまり、他者への愛からくる涙を流すのではなく、他者(のイメージ)を自分のうちに取り込み、そのイメージに涙を流す(=涙を飲み込む)こと、そしてそれに味をしめることが、ここでフロイトがいう「喪の作業」の失敗ではないだろうか?

喪った『あなた』のイメージを私の中に取り込んではいけない。

私が『あなた』を喪った時点で、『あなた』はこの世界からも《私の世界からも》喪われる。

この認識を持たねばならないのではないか?

すると、「アイツは死んじまったけど、お前の心ん中に生きてるよ」は間違ったアドバイスということになる。

「アイツ」はもうこの世界にもあなたの世界にも存在しないのだ。

――――

私の世界とあなたの世界の共通部分に、私たちという関係が存在し、生きる意味がそこから生まれる。

喪失とは、その共通部分の喪失だ。

そこでは《私の世界も喪われている》。

そして、その喪失した部分を『生前のあなたのイメージ』で埋め合わせてはいけない。そのイメージを抱きかかえ涙を流してはいけない。

それは、鬱病への一方通行路となる。



だから、ただ、涙を流せ。

あなたへの愛が涸れるまで涙を流せ。


これが、私の「喪の作業」への考えの最新版だ。
私は、私の中のあなたのイメージに涙を流していました。私は、涙を味わっていました。


だからこれからは、あなたへの愛を涸らすために、涙を流します。

ねぇ?それでいいでしょう?先輩。