嘘を信じることの価値 ― 人間関係の終わり、別れ、絶望に関して

■「人間関係の終わり」ってものはいつなんだろうと考えていた。

人間関係の終わりは、相手の死ではない、とは思う。

死の瞬間から、喪の作業が始まる。


もう手に触れることはできないけれど、死の瞬間から相手は初めて自分の中で確実性を伴って生きはじめる。

彼は更新されることのない、固定化された表象として心に住処をみつける。


碌に知りもしないフランス現代思想風に言えば、

エクリチュール(書かれたもの)は生き生きとしたもの(話すこと)が死ぬことを前提とされているが、その死ぬことによって初めて書かれたものとなって生きはじめる。

書かれたものは、死ぬことによって、つまり、書き手の意図が届かず、読み手の解釈に委ねられる場に置かれることで初めて、読み手の中で生きる場所を見付ける。

ってことだろう。



■では、死ではなく別れはどうだろうか?


基本的には構造は一緒だ。
しかし、根本的に異なる一点がある。

それは、「手を伸ばせばもう一度届くかも知れない」という期待だ。
手が届いている今があったかもしれないという仮定法の存在だ。

別れがひとを苦しめる最大の点はこの仮定法にあると思っている。


仮定法が存在する限り、相手は死なない。
つまり、相手のイメージが相手自身の手から離れ、自分の側に委ねられ、自分だけの中に住処を見付けることができない。

相手のイメージが更新されるかもしれなかった、という、「手が届いて、もう一度会って、関係が紡がれて…」という期待が残存してしまう。


では、この期待、仮定法を完璧に捨て去ることが別れに対する最良の向き合い方なのだろうか?

そうは思えない。

この仮定法を捨て去って、相手を死んだものとみなしたとしても、その喪の作業は完遂しない。


なぜなら、相手は必ずまだどこかで生きていて、再び同じ時間を持つ可能性があるからだ。

この現実は消去することは不可能だ。

したがって、相手へ向いたいというベクトルのスカラー値を0にしようとする喪の作業というものは果たし得ない。


ゆえに、別れに際しては、相手を捨て去ることは解決策とはなりえない。



■では、どのようなオルタナティブがあるのだろうか?



「もうすこし一緒にいたかった
 うまくやれるような気がした
 そんなことはどうでもいい
 ただもう一度会いたいんだ
 笑ってくれれば僕の世界は救われる」


ということを稲葉浩志がうたっていた。

別れた後に生まれる期待、仮定法は、反実仮想だ。
「実際にはそうなることはない」ということが含意されている。

そして、通常、ひとはそこにネガティブな価値付けを行う。
「手が届いていた頃」の幸せが失われているがゆえに。


問題の所在はそこだ、と稲葉は言っているのだろう。

この仮定法、反実仮想に「笑顔をくれればそれでいい」と言うということは、

この仮定法、反実仮想にネガティブではない価値付けができるようになるきっかけをくれという願いだ。


このMayという曲が収録されている「ELEVEN」というアルバムでは似たようなことが繰り返しうたわれる。




■自分の人生の悲観的な期待、だれもが抱く。だれもが過去を後悔し嫌悪し、絶望する瞬間を持っているだろう。



信じるくらいいいだろうという曲では、それに対し、

「何一つとして 結局 続かなかった
 変わりたいって言うだけで 何もやらなかった

 しょうがないって言いたい ただただ それだけで
 妥協の理由をいつも探して 街中うろついてただけ

 嘘でもいい聞かせてくれ チャンスはまだ残ってると
 信じるくらいいいだろう いいだろう」


「嘘でもいい」のだ。

「信じるくらいいいだろう?」その懇願によって、自己嫌悪を、暗い未来のビジョンを
絶望の底から救うことができる。


そんな、改めて「ELEVEN」を聴いたり、友達の話を聞いたり、「ELEVEN」縛りでカラオケに行ったりしながら考えていたこと。


非常に乱文で読みづらいですが、なんか、少し整理できた気がする。

うん。


信じるくらいいいだろう?


▽参考

B'z 「ELEVEN」 (Amazon.co.jp
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00005HQPF/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_1?pf_rd_p=466449256&pf_rd_s=lpo-top-stripe&pf_rd_t=201&pf_rd_i=4916019229&pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_r=0D3T5SDP2DH2WCXC16PQ