愛するものの喪失という悲哀

失恋であったり、

死別であったり、

自分の持てる愛情を向け続けたものを失うこととは。


とか、このところ考えていたところに、サン=テグジュペリ『夜間飛行』に、

考えさせる一節があったので、引用してみようと思う。


パイロットであるフェビアンの死の報せが届いた室内での、
フェビアンの妻と社長、リヴィエールが対峙する場面から。

彼女は弱々しく肩をすくめた。リヴィエールにはその意味が理解できた。

「今家で、またあのランプやしたくのできた食事や、飾ったお花を眺めていたって…」。


いつか若い母親にうち明けられたことがあった。

「うちの子は死んでしまったのに、いまだにそれが理解できないんです。

 つらいのは小さなことです。


 あの子の着ていたものが目に入ったり、夜中に目がさめて、

 いとおしさがわきあがってくるのに、

 もうその行き場がないとわかるとき。


 お乳とおなじです……与えようがないんです」。


眼前の女性にとっても、明日から少しずつファビアンの死が始まる。


こののち虚しいものになるさまざまな行為のひとつひとつ、

物のひとつひとつの内側で死が始まっていく。

そしてファビアンはゆっくりと自分の家から去っていくのだ。


リヴィエールは深い憐憫を押し隠した。

ひとつひとつの行為、ひとつひとつの物、

フェビアンに与えるために、愛情が作り上げたそれらの行為や物は、

フェビアンが去っていってしまうなかで徐々に穿たれ、虚となっていく。


しかし、愛情は、虚となってしまった、もうそこには誰もいないところへと向かおうとし続ける。

向かうことがなににも辿り着かないことを理解することはできるのだろうか。


それでも、虚をつかみ取ろうと、誰もいないところに手を伸ばそうとし続ける愛情は、

悲しみという名で呼ばれることになる。


しかしそれは、確かに愛情である。

悲しみが強ければ強いほど、確かに愛情である。


ひとつひとつの行為や物に現れ出るフェビアンの影は、いつしか消え去る日が来るのだろうか。

「そしてファビアンはゆっくりと自分の家から去っていく」日はやってくるのだろうか。


フェビアンへと手を伸ばそうとすることなしに、フェビアンを慈しむことは可能なのだろうか。

彼女が、そのひとつひとつの行為や物を慈しむ日はやってくるのだろうか。


手を伸ばすことなしに、愛することは、

求めることなしに、愛することは、

そんなことは、はたして人間になせる業なのだろうか。



すべての失った物へ

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