「ここまでが私だ」とはっきりと境界線を引けるひとはどれだけいるだろうか。


たとえば、喪失感。
大切な居場所だったり、大切なひとだったり。なにかを失うということはただ、そこへと向かっていた気持ちが行き場をなくす、それだけの事態なのだろうか。

あくまで私を中心に据えて、大切な居場所、大切な人をその周りに配置する立場は正しく物事を捉えているのだろうか。
主体(これは、支配する、主導権を握るという意味を持つ言葉だ)−客体(逆に、支配される、お客様だ)という関係ですべてを捉えきることはできるのだろうか。

20世紀にそんな疑念が生まれ、間主観性とかそんな言葉が生まれ、主体−客体関係には閉じこめられない関係が、あるのだということが共通認識になった。

「ここまでが私だ、その他は私ではない」では捉えきれない関係の存在。

これは、アイデンティティというものの脆弱性をそのまま示している。なぜなら、アイデンティティとは、「アンデンティファイ:一つのものと定める」ことを意味しているからだ。
「ここまでが私だ」という境界を一つのものと定めることができないのならば、アイデンティティという言葉で指し示しているものはその殆どが虚構か、自己欺瞞だろう。


人間本性には、「あの統一を求める郷愁」とカミュが表現した強い欲求がある。人間は常に「一であること」を追い求めている。

しかし、それは叶わない。それ故に、自分の自分自身に対する関係は理想と現実の埋めようのないギャップなのかで絶望となる。その絶望から逃れたい一心の叫び声が、先に述べた虚構や自己欺瞞の原因だ。


しかし、事態はそれほど深刻なのだろうか?
私が「一」であると定められていないことはそれほど私を引き裂く苦痛なのか?

例えば、恋愛を考えてみる。
恋愛において、「相手と一つになりたい」と思うことはとても自然なことだろう。
このときすでに、私は、「一」であることを放棄している。

恋愛の本質には、「これが私だ」という境界線の中に愛する相手が入ってくる−−自らも入っていく、そういうアイデンティティの相互介入がある。


さて、問題は、別れだ。
フロムが「これほど強くだれもが望みながらも一度も成功したことのない事業」と言ったように、恋愛には常に終わりがある。

その時、かつての恋人を振り切ろうと、忘れ去ろうとするのは、正しいことなのだろうか?