寄付についての覚書―共感・愛・理性・尊重

「なぜ寄付をするのか」という問いについて、共感というキーワードが頻出する。
しかし、共感というものは長続きしない。そもそも、共感とは共に苦しむことであり、その状態を回避したいと思うのが一般的だろう。共感的なコミュニティは長続きしない。第一に、共感は薄れることをその性質としてもっている。第二に、共感は他者に強要できない。震災を期に生まれた関係のうち共感的な要素だけだったものは既に姿を消してはいないか。
そこで、共感に代わるものとして理性的な納得、という項が出現する。共感という感情の対立項としての理性だ。「ミッションに共感したひとに、理性的な説明をする」といった話である。
しかし、納得が果たしてひとを行動に駆り立てるだろうか。ここで納得は共感のアクセラレータという位置にすぎないのではないか。「団体の意義をとうとうと説くなど、理性的な説明ばかりをしてしまう」ことはファンドレイジングの誤ったやり方のはずだ。
共感を別のかたちに置き換えようという発想自体は間違ってはいない。しかし、理性はその代わりとして不十分だ。
代わりとなるものはひとを行動に駆り立てるものでなければならない。理性の掲げる正義に則って行動するひと(セン的なコミットメント)がはたしてどれだけいるだろうか。
「駆り立てるもの」といえば、やはり、愛が有力候補となるのではないか。愛は、共感のように苦しみを分かち合う関係ではない。一方で、共感以上に長続きはしない可能性がある。この後者の欠点を補うことはできないだろうか。
「子はかすがい」ということばがある。愛が具体的なかたちになることで、関係を束縛する実質的な力をもつようになることだ。愛の欠点は「子はかすがい」によって補うことができる。さらに、「子」は未来の希望を暗示する。
簡単に言ってしまえば、寄付・投資の結果としてコモンズの所有権を分配する、ということだ。トビムシの組成する「共有の森ファンド」などが典型的だ。
しかし一方で、先ほどは理性という項を簡単に切り捨てすぎた。カント的な「尊重」という関係、これもまた、ここでの欠点を補う性質を持っているだろう。しかし、その具体的なかたちは今のところイメージがつかない。もし、なにかイメージがあればご意見賜りたい。

「ファンドレイジングが社会を変える」

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