「愛」「愛する者」とは――情報社会論からの解釈

アドルノの警句を紹介したい。

愛されているといえるのは、君が弱さを示しても、相手を挑発してつけ込まれることがない、そういう場合だけである。

ここで言われる「弱さ」とはなんだろうか。これが苦悩のことであれば、愛とは、傷を舐めあい、苦悩を伝染的に倍化する退廃的な関係を意味することになる。しかし、それは私たちのイメージする愛の一側面ではあってもそのすべてではないだろう。
では、この「弱さ」を、自分がヴァルナラブルになること、と解釈してはどうか。
私たちはいつ自分をヴァルナラブルな状態に置くだろうか。たとえば、この日記を書いているときがそうだ。いま私は、自分の考え、手の内をまっさら相手に晒している。ツッコまれ、ディスられるかもしれない。
しかし一方で、この「弱さ」は、ツッコまれることで議論が発展したり、予期せぬつながりを生んだりする可能性を秘めている。プログラマソースコードを公開するときなどが典型的だろうか。金子郁容は『ボランティア』のなかで、このヴァルナラビリティをして「弱さを強さに変える触媒」と表現している。
このアドルノの警句は、ヴァルナラビリティが「弱さを強さに変える触媒」として機能している状態を「愛」と表現しているのではないか。この触媒をもってして、自らの新しい価値付け・意味づけが相互に織り重なっていくプロセスである、動的情報の生産プロセスが「愛」である、と。
このように「愛」を捉えることが可能だとすると、ホルクハイマーの次の警句の味わいも変わってくる。

交換の世界にあっては、より多く与える者は間違っているのだ。ところが、愛する者とは、つねに、より多く愛する者だ。

交換の世界の対比で、市場経済から切り離された密室の圏でなされる愛の営み、といった印象を受ける。
しかし、「愛」が動的情報の生産プロセスであるとしたら、「愛する者」は密室の圏の外側に向かって開かれている。
そうだとしたら、市場とは異なる原理で動く、「愛」の圏は、決して密室ではない。「愛する者」は市場のオルタナティブとして、新しいネットワークを形成していく者なのだ。
ホルクハイマーの診断する「社会の冷たさ」は、彼らによってこそ克服されうるのではないか。

ボランティア―もうひとつの情報社会 (岩波新書)

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