随想――哲学と経済学

群馬北西部はまだ肌寒い。20kmほど真っ直ぐ突っ切れば新潟県に入ってしまう程の山中、田中角栄の頭の中では切り崩す山の一部だったのだろうか。今、上野行きの特急草津に乗り込む。高校の時は同じ車両が渋川まで快速運行していたから、この特急草津の車両は高校の頃の朝を思い出させる。30分弱、ずっと勉強をしていた。……って、それは今も変わらないか。
昔から集中しだすと止まらない性格で、実家で高校学参を眺めていたがどうやら1日で2冊程読み込んでいたようだ。まぁ高校の勉強なんて知識を仕入れてそのままアウトプットさせればいいという労のないことをやっていたんだ。苦痛というよりはむしろ退屈な作業である。だから、高校で学んだ知識というのはかくも早く風化していくのだろう。
さて、以前、公共政策院に行っている友人に私のやりたいことは社会学精神分析学との親和性が高いと指摘された。――不本意だろうが、との言葉を添えられて。

この指摘は的を射ている。実際、私の本棚には経済学の本の3倍ほどの哲学、精神分析学、精神病理学社会学、宗教学などの本が並んでいる。

確かに、常に思考の出発点となるのは上に挙げた学問領域からの智恵だ。しかし、問題は実効性だ。現在、哲学にどれだけの実効性があるだろう。せいぜい、専門家が専門家同士でいがみ合ってるに過ぎないのではないか?社会学が実際になにか社会を変えただろうか。彼らは「事実」を分析することのみを自分の領分とし、「当為」は述べない。

なぜか?
「当為」は説得の論理であり、説得力がなければならない。そう考えたとき、現在、社会を変えたいという思いを最も説得力のある言葉で述べるには経済学の言葉で語ることが一番の近道だ。

社会学の明らかにした「事実」(因みにパレートはコントの実証主義の強い影響を受けている)を元にし、哲学の「当為」を心に刻み、彼らの言葉を経済学の言葉で述べる――そんな回りくどいプロセスを私が採ろうとしているのはこういった訳からだ。

経世済民の学は、世の民を済う(すくう)ために奉仕する。経済学はツールではない。唯一、実効性を持った言葉を話せる社会科学の女王だ。ただその女王が気難しい、それだけの話。この経済危機、新古典派が揺らぐ中、新たな理論を構築するにはもってこいの時代に生まれた奇跡を噛み締める。

厚生経済学の逆定理は革命家の手引きである。』―Sen.A.K"Market and Freedom"