(生きる糧としての)欲望について

なんだろうか、あまりにも「統一」とはかけ離れた世界を自らの心中にすら認めざるをえなかったからだろうか、その不可能性を明めることに諦めざるをえないことを知ったからだろうか。

いまの私に「嫌いな言葉は?」と聞いたら「概念。」と答えるだろう。

自らの表象のなかにしか世界は存在しないのだから、その舞台を表象する当の私自身が上から見下ろせるわけなんてない。世界は、この眼前にしか、有り得ない。

現代、随一の形而上学はおそらく経済学だろう。ありもしない「全体」を想定し、なんらかの「答え」を紡ぎ出そうとしている。それには、たしかに道具的価値はありはするかもしれないが、哲学の伝統からすれば100年も昔に崩れ去った体系だ。

「自らこしらえた舞台の上で、その装置をホンモノと思いこんで、生きる。」
そんなことはできるのか?今まさに、そんな地点に立っている。

それを可能にする条件は唯一、「欲望」なのだろう。
欲望に突き動かされることを否定しない。It drives me.だ。

自らの立つ舞台を作ったのは?そこで舞台装置を動かす力は?
それは、欲望だろう。欲望って単語が嫌いなら意志って言ったっていい。さして違いはない。

ひとつひとつ、文化が私の上にこしらえた倫理だとか、規範だとかいった超自我を壊していかなければいけない。このままじゃ、超自我に私が、壊される。

超自我に抗いうる唯一のエネルギー、それは意識とかそういうレベルのもっと内奥から発せられる欲望の声だ。無意識からの、欲望の声。

世界を、解き明かすべきではない。
「原因のない結果なんて、救いのない祈りのようなもの」なんだから。
因果の糸が人間の欲望の産物だからなんだっていうんだ。そこに自然科学的な基礎がなぜ必要とされる?
救いが欲しいから祈るんだ。結果の言い訳で自分を慰めたいから原因を探るんだ。
そういう欲望に従って何が悪い?

私が生きているのは、自然科学の世界じゃない。私の表象する、私の世界の、舞台装置の上なんだから。