世界の配色
世界の配色はだれが決めているのだろう。
窓の外には紅葉の梢を前景に、今が盛りと野菜が成り、連なる山の上には空が広がる。
今朝、起きたときにはたしか、五月蠅いくらいに眩しくて綺麗な色を見た。
ある時、突然に、その世界の配色は変わり、今はすべてがくすんでかすれて見える。時間に取り残された空間にいるようだ。
先ほどまで頬に差していた色も失せる。
つまり、これは私の表象する世界にほかならなくて、ただ心だけがその配色を決めている。そして、その心があまりに移ろいやすい。
世界が移ろいゆくのではない。諸行無常の響きは心が鳴らす。
希望の色も失望の色も、すべては心のみせる幻影で、実在なんてどこを探しても証明しようがない。人間はそういう世界に生きている。
こないだ、「なんで生きたい、って思うんだろうな」とか考えて、それは、「なんで腹が空くんだろうな」とか「なんで眠たいんだろうな」とかって疑問と同じくらいバカらしいと思い至った。
腹が減るのだとか、眠たくなるのだとかと同じように、生きたいのは当然のこととして、すべての土台に据えても差し支えなんてどこにもないだろう。
ただ、その土台の上に自分の心はどんなジオラマを組み立てられるか、それだけに懸かってる。
皿の上の料理がひどく見てくれが悪く、味も悪かったら、そりゃ食欲も失せるだろう。それと同じ理由で、ひとは世界を美しいと思ったり望ましいと思ったり疎ましいと思ったりするんだろう
。
食欲をそそる料理の盛りつけってのは難しいもんだな、と思う。
こんなときは、せめて、自分の欲望(意志とかって格好悪く呼んでも良いけど)を、できる限りかき立てないといけない。どんな不味そうで実際に不味い料理も、すっげぇ腹が減ってたらうめぇうめぇって食えるようにさ。どんな醜い配色の世界でも、そこに欲望が残ってたら、生きよう生きようって思えるんだろう。
だから、変に倫理だとか通念だとかそういう小賢しいものを信じちゃいけない。そいつらは欲望の邪魔をする。
訳知り顔で、「これが自然の摂理だ」とかって食われる動物を眺めるのは賢くないな。世界で唯一根拠があるのは自分の主観しかないんだから、それを可哀想とか思ったら助けりゃいいんだ。
とかって、結局ニーチェの思想に近づいていく。