辞書を持って生きていれば、幸せでしょうか

前回のエントリーから5ヶ月弱経つ。指を折って数えてしまった。単純な計算は苦手だ。
何故って、後頭部に漬け物石でも寄生したような頭痛に三ヶ月ばかり悩まされたうえに、連合弛緩なんじゃないかってくらい観念放逸状態にあって、思考が迂遠し、すべてがまとまりに欠けていたからだ。
そんな状態で考えられたのは、言葉についてのみだった。頭の中で言葉がまとまらない、他者と会話をしようにも言葉が吐いてでない。言葉というものがお粥みたいにふやけて、明確な輪郭をともなわない。そんな折り、自分がどこにいるのかわからなくなってしまっていた。
言葉と世界は対応していなければならない。少なくとも一人の人間の頭の中で世界を描く限りでは。私の外側というキャンバスには、言葉という筆で輪郭をきちっと描かれていないとならない。そうでないと、私が世界に回収されてしまいそうになる。
浸透圧だ。私の濃度が希薄になれば、私の膜を通して私は環界の側に流れ込んで、拡散してしまう。
だから、独り部屋に籠もる時間が多かった。ひとと会うのが苦痛だった。第一に会話しようにもあまりうまく喋れないし、第二にひどく疲れてしまった。
言葉を獲得できていないこういう状況では、他者が私の中に嵌入してくるって事態が平然と起こるような気がした。精神分析が幼児期にやたらこだわる所以もこのあたりにあるんじゃないか。
それと、観念ってものは言葉によって述定された事態が帰納されて生まれるものなんだと理解しているのだけども、言葉の指示内容があやふやになってしまった状態だと、あるひとつの事態がそのまま観念になってしまうようなことが起こるらしい。<<個別−普遍>>という縦軸がうまく機能しなくて、ある特殊なできごとが、そのまま普く感じられてしまう。ある知人がよそよそしかった、というだけで、普く私の知人は私に対してよそよそしい、と思ってしまうような。服に赤黒いしみがついたと思っていたら、その位置に赤黒い消えないほくろができてしまった、というような。
この二つの事態が合わさると、私の中に嵌入してきた他者に、私の中の私だけの玉座が奪われてしまうかもしれない。こわいな。
だから、辞書でも持ち歩いて生きたら、上手く生きられるのかもしれない。すべての事態を辞書で引いて、辞書に書かれている内容だけでその事態を定義してしまって、それに安息する。うん、安心だ。
こういった具合に精神が衰弱していたわけです。
最近は朝起きて夜寝るという、最良の薬により少しは安定していますので、折を見て更新を再開できたらなー、と思っています。こうやって、言葉を書く、ということで頭の中身をある枠に閉じこめることはとても精神的によいのです。