靖国参拝から始まる一年
あけましておめでとうございます。
元旦に友達二人と靖国に参拝しました。
祈願っていうか「私も頑張ります!」的な宣誓になってしまった。
だってさ、大きなものがあったほうが頑張れるじゃんか。守ってもらえてるから、帰る場所があるから、走り出せるんじゃんか。
まぁ、「みんな苦しいんだから、がんばろうよ」って言葉もらったとして、一般化すんなよ!とかって思うかもしれない。
けど、そう思ったときには、私っていうひとりの人間をみてほしいっていう自己愛、言葉の裏に潜む強制力を退けたいっていう自己防衛に気付かなきゃいけない。
優しいひとの言葉に反感を持つほどの自己愛があるなら、大丈夫だ、やってける。
もしこの言葉が、「一般に生には存在しようとすること以上の理由はなく、その形式は苦悩と退屈の間を行ったりきたりしている」とかいうものだったら、救いのある言葉に聞こえる。
あー、すっげぇツラいけど、まぁそれが生きるってことなんだなーって。
インセンティブって言葉も響きはいいけど同じよーなこと言ってるでしょう。インセンティブは格差がなければ生まれないんだから。低い位置やツラい位置、劣った位置に居なきゃ感じないんだから。
まぁこんな具合に、「一般に〜」って語りは、なんか救いのある物語なんだと思う。
ひとは、大きなものに身を寄せていたい、大きな流れに流されていたいものなんだと思う。なぜって、大きな物語っていう胎内にまずいなきゃ、そこから生まれ出ることはできないから。
平安をのぞむにしろ、変革をのぞむにしろ、いま自分を包んでいる大きなものを見つけ見つめなきゃいけない。
そしたらおのずと、歩み出さなきゃいけないんだなって思う。
「『この国はもうダメだ』それが口癖で/自分で自分を貶して満足してハイおしまい/わかるよ気持ちは/でもそろそろこの店をでようよ」(銀の翼で跳べ より)