THE FLAG Flutterin' in 2005

それがよすがとなって零れ落ちた記憶を呼び起こすような文章……そのような文章が名文と呼ばれるに値するのだろう。

実家に帰り自室の本棚の前で心に触れた本の頁を繰っていたら久々に声をあげて泣いてしまった。
この日記に付されたタイトルを見て、判る人にはその本のなにが私をして泣かしめたのか想像に難くはないと思うので、そのことに関してはこれ以上ここで触れることはしないでおく。

記憶というものは不可解だ。
聞いた話では、人間は現在までの記憶というデータを全て持ち続けているらしい。けれど、それも恐らく電気信号の塊であろうから、どちらにせよ記憶というものは<<在るもの>>ではなくて<<紡がれるもの>>としてしか現前しないだろう。

恣意的な産物……記憶とはそういうもので、現在、想起という行為をするに至った私の現在の精神状態の分布に依存している。

……しかし、この<<過去の非実在>>という考えはある特殊な事象においては妥当しない。

ある過去の時点においてなされたある事象に関する表象が現在にその当時のまま蘇ることがある。……今日、あの時に声をあげて泣いたのと同じ様に泣いたように。

その特殊が成立する条件は二つある。

第一に、その当時の表象が言語(=論理)の限界を超えるものであったこと。

第二に、その当時の表象を抑圧したことにより心的複雑性(konplex)が形成されていること。

ジグムント氏は、ヒステリーの事例に示したように、抑圧と心的複雑性による対象充足作用の異常行動は抑圧されたものの言語化によって解消されることを科学的に示した……が、そもそも当の抑圧されたものが言語化不可能な表象であった場合について氏がなんらかの見解を持っていたか私は知らない。

というか、言語化不可能な表象などというものはあり得るのだろうか?悟性(〜=理性)を介さない表象、その記憶などありえるのか?

ちょうど研究計画作成のためにエマニュエル氏を読まなければならなかったので、今回身に降りかかった号泣を材料として、氏の成した哲学をもとに「理性でどこまでいけるか」の思考をしてみようと思う。

うん、やはり、『真理などというものはそこらへんの道端にごろごろ転がってるもの』なのだろう。