宿酔――已まぬ動悸、病まぬ思考

何日も調子良く知識を仕入れ活発に過ごす日が続くと、連日の飲酒がもたらす宿酔に似た時期がやってくる。

その時期には、決まって精神状態は沈んでいて読書や外出などの意欲は起きない癖、思考は鋭利になりそれまでの期間に溜め込んだ知識を再構築しアウトプットを始める。

自分の日記にぽかんと開いた空白の期間はそういう快活な時期に相当し、更新頻度が高くなった時期は宿酔の時期に相当しているようだ。

ここのところ大学院(経済学)への研究計画を書くための勉強に時間の大半を充てていた。通底する問題意識は「自由主義の否定的帰結」である。新・厚生経済学の父祖ヴィルフレット・パレートに関する著作を紐解いてみると彼自身は後年、そのことに気がついていたらしい。
今日私たちが耳にするパレートという名はヒックスにより英国古典派経済学に取り入れられたパレート像であるようだ。

自由の否定的帰結――それに関し、パレートの思想をショーペンハウアーフランクフルト学派の視座から捉え直そうという目論見を立てている。

なぜそんなことをするのか?
――それを論理化させないで放っておいてしまったが、それを言葉にするならば、「ある社会の自由度を測定するための変数として、スキゾイドの人数は有意なのでは?」というあまりに悲しい発想だ。

スキゾイドとは統合失調症罹患者の臨床用語であり、彼らは自由故にスキゾイドとなる。

ある社会を視るに際しては、その社会故の病理を観察するのが一番良いのだろうという、ある病人の社会への反逆行為。

実を結ぶだろうか。経世済民の学は、真に人々の幸福(それは厚生と呼ばれる)に迫れるだろうか。「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う」ことはできるだろうか。

人々の幸福のためには社会は規制を持ち、制限を与えなければならない。