わがままな愛

(2009年08月12日08:15のmixi日記から転載)

この夏学期、副ゼミで愛について研究してました。
なんだかケリがついた気がするので日記に記そうと思うのです。


愛にとってなくてはならないものは、わがままに甘えて、欲しい!!って思うことです。

「あなた」っていう未知の世界に触れていたい!!つーか触れさせろ!というわがままな思いがまずなきゃだめなんです。


「わがまま」になるってのが案外難しい。子供が「買って買ってー」ってだだこねてるとこを想像してください。
そこには、「自分にはそんな要求する権利があるのか?こんなこと言って見捨てられやしないか?」なんて不安の欠片もありません。
大人になったぼくらにそんなわがままが難しいのはなぜか?「失うのを怖いから」でしょう。
でも、失うのを恐れてたらどこへも進めません。ひとは常になにかを捨てながら生きてるんだから。


「大人にもなってわがままであることははしたない」なんて倫理観があるかもしれません。
でも、わがままでいたいなんて思いが大人になってなくなるんだったら、それを禁じる必要なんてないはずです。
だれも、わがままでいたい、だれかに包まれてたい、羊水のなかにいたい、そう思うけど、それがえてして失敗するから、こんな倫理観は生まれたんでしょう。
たいてい、倫理観は、素直な欲望を隠す手段です。


でもそんな「わがまま」はよく履き違えられます。わがままは、求めることで、ゼロからプラスへ向かうこと。
「寂しい…辛い…、だれかそばにいて…」という思いはわがままじゃない。求めてない。必要としてるだけ。マイナスを埋めたいだけで、「わがままに求める」こととは違う。それは相手に苦しみしか与えない。


「わがままに求める」ことには大きな力が宿ってます。そうやって愛を求められたひとは、それに応え愛すると同時に「なにか」を受け取るんです。
だって、わがままな愛をぶつけてきてくれるってことは、その相手は自分のことを「見捨てるかもしれない」とか頭に浮かばないくらいあなたを信じて、「あなたに触れてたい!!!あなたが欲しい!!」と思ってるわけです。「わがままな愛」を求められることで、あなたは信頼されてることと、自分にはそれだけの価値があることを受け止めるわけです。
それが、「幸せ」って気持ちで、生きる力の源になる。

たしかに、わがままでないほうが上手に世渡りできるでしょう。誰からも好印象で、でも(なにか失うかもしれない行動とか)大事なとこは上手に逃げる。

でも、わがままに求めることが心の一番抑えがたいど真ん中から出てることを考えてください。

それを止めた人間はどうなるでしょう?心のど真ん中を自分で抉って捨てた人間は…。
常に、ど真ん中以外の場所をさまよって、手軽な物語に身を寄せ、小さな安心のために、見捨てられないために、憎むべきひとを憎めなかったり、必要以上に頑張ったり、心の空虚から目をそらすために仕事に没頭したり酒に女に溺れたりしてしまう。


じゃあ、どうしたらその心の穴を埋められる?
もう心の真ん中は自分じゃ見つかんないとこに追いやってしまったのだから「わがままでいいんだよ」なんて言葉が届くはずもない。

だから、あなたの心の奥に触れたい!って怖いもの知らずのひとに「あなたがほしい!!!!!」って思われること、それによって、自分の心にそれを受け取る部分がまだちゃんとあったことを思い出すことでしかそれは可能になんない。
そして、その心の部分にもう一度命を吹き込んで、わがままをぶつけ返す勇気をもって実行することが必要。こわいけどおそろしいけど、そうやってしか心の空虚は取り戻せない。


必要とするんじゃなくて欲しいと思う。この違いが、それが愛かどうかの一番の分かれ目。
マイナスを埋めたい、じゃない。プラスに向けて欲しいと思うこと。


そして、そうやって、愛は、生きることに唯一答えをくれて、人間が人間らしくなれる一階の条件となる。

愛の賛歌は人間賛歌だと思います。