内面の空虚、意識の希薄、精神の貧困および孤独について

Arthur Schopenhauer APHORISMEN ZUR LEBENSWEISHEIT
 邦訳:『幸福について―人生論―』(橋本文夫訳)(p.106迄)を基に

◇はじめに
 私は幸福だとかよき生活を送る智恵が欲しくて本書を読んでいるわけではない。私が第一に興味があるのは孤独感といわれるものである。孤独感とはなにか。孤独感はどのような状態で発生するのか。孤独感によって人間はどのような行動へと突き動かされるのか。私の主な関心事は以上である。


◇本書の位置づけ−「緒言」より
 ショーペンハウアーは、幸福な生活を「生きていないよりは断然ましだと言えるような生活のことである、とでも定義するのが精一杯であろう」(7)とし、「人生がこういった生活の概念(筆者注 幸福な生活)に合致しているかどうか、ないしはせめて合致することがありうるかどうかというに、この問いに対しては、読者もご存じのとおり、私の哲学は否と答える」(7,8)と評価する。彼の哲学にとって幸福とは、苦痛 からの一時的な解放という消極的な意味以上のものはもたず、人間の生活とは苦痛と退屈 とのあいだをいったりきたりするものであるとされる。さらにこの三者は、「ごく大雑把に考えてみただけでも、人間の幸福に対するに抱いて機種が苦痛と退屈であることが知られるであろう。そのうえ、この二大敵手のどちらか一方から遠ざかることができればできるほど、それだけまた他方の敵手に近づいているのだということが言えよう。」(34)という関係にある。しかし、幸福論とは、幸福な生活の概念に合致する人生が存在すること前提となっている。そのため、彼の幸福論は、『意志と表象としての世界』(筆者注 以下、『正編』と表記する)第2巻49章で非難しておいた人間生来の妄想(訳注 人間は幸福になるために生きているという迷妄)が基礎になっている。

◇『正編』第2巻49章について(省略)

◇幸福にとって重要なものは主観的なものである
 ショーペンハウアーは、『正編』の冒頭で「世界は私の表象である」という命題を提示するくらいの人物であるのだから、幸福に関しても「主観的なものが客観的なものよりも比較にならぬほど重要だ」(16)と主張する。そして、その根拠を「一個の人間の自己自身としてのあり方、たった一人になってもどこまでもつきまとい、誰からも与えられたり奪われたりすることのないものこそ、その人間のひょっとしたら所有するようになるかもしれない何ものよりも、まして他人の目に映じた自己のあり方などよりも、本人にとって本質的であることが明らかだからである」(17)とする。つまり、「あらゆる点で、また万事につけて、人のまず享受するところのものは、自己自身」(24)であるから、「人間が同じ外部的な推移ないし事情によって触発される具合も各自各自で全く異なっているし、同じ状況のもとにあっても各自の生きる世界は別々である」(11)との主張が可能になる。したがって、「人生の幸福にとっては、われわれのあり方、すなわち人柄こそ、文句なしに第一の要件であり、最も本質的に重要なものである」(18)とされる。客観的には同じ状況にある2人でも、彼らに対してその状況がどのように映るかが、彼らの幸不幸をわけているのだ(29)。
 以上の知見を整理すると、幸福とは、苦痛ないしは退屈をいかに対処するかという点に帰結する。苦痛や退屈自体を減少させることは不可能である。苦境に対しては朗らかな精神や健全な肉体をもってそれを受けとること(陰気(デュスコロス)と陽気(エウコロス)の差別 )が、退屈に対しては知性をもって知的な活動よって価値を生み出すことに享楽を覚えること(「『精神活動を伴わぬ余暇は死であり、人間の生きながらの埋葬である』〔セネカ〕」(54))が、幸福な生活にとって重要である。ひるがえせば、朗らかな精神、健全な肉体や知性をじゅうぶんに持たない人間にとっては幸福な生活は到底得られないものであり、せめてできることといったら苦痛や退屈から必死に逃れようとするのみである。彼らを特徴的づけるのが内面の空虚から逃れようとする生き方であり、「人の与える印象、すなわち他人の思惑に映じた生き方」(79)を過大に評価する生き方である。「すべて俗物どもの大きな悩みは、理想によって慰められることがなく、退屈から逃れるのに必ず現実を必要とするという点である」(65)ということだ。

◇内面の空虚、意識の希薄、精神の貧困および孤独について
 本節では、内面の空虚に関して考察する。内面の空虚は、精神の鈍さから生じる。つまり、「精神の鈍さは全面的に感覚の鈍さおよび刺激感性の不足と相伴っている。こうした性質の人はあらゆる種類、あらゆる程度の苦痛や悲しみに対して、他の人よりも鈍感である。けれども、他方に他ならぬこうした精神の鈍さから、例の内面の空虚が生じてくる」(35)のだ。そして、内面の空虚は「ありとあらゆる種類の社交や娯楽や遊興や奢侈を多く求める心」(36)を生じさせ、「内面の空虚、意識の希薄、精神の貧困が、彼らを駆って社交界に走らせる」(22)という性質を持つ。「普通の人間は、事、人生の享楽となると、自己の外部にある事物を頼みにしている。財産や位階を頼みにし、妻子・友人・社交界などを頼みにしている。こうしたものの上に彼にとっての人生の幸福が支えられている」(55)のであり、「このような人間の重心は彼の外部に落ちる」(55)と表現されている。また、「その人(筆者注 重心が彼の外部に堕ちた人間)の願うところは動揺常なく、気まぐれである。資力の許すかぎり、別荘を買ったり馬を買ったり、宴を張ったり旅に出たりして、とにかくすごい贅沢をしようとするのは、何事に寄らず外部からの満足を求めるからだ。」(55)とも述べられている。
 内面の空虚のこのような性質はどのようにして生まれるのか。それは、自己から逃れたい一心に由来する。つまり、「娯楽と社交とを求め、なによりもまず自己から逃れたい一心から、どんなものにでも甘んずるであろう。というのは、各自が嫌でも応でも自己自身に立ち返らされるような孤独の状態にあるときには、各自の本来有するものが正体を現してくるが、そうなると王侯貴族のまとう緋色の衣に身を包んだ愚者は、自己のみすぼらしい個性の重荷をかなぐり捨てるすべもなく、長嘆息の体である」(38)とされる。内面の空虚を持つ人間は、自己のみずぼらしい個性の重荷と対峙することに耐えられないのだ。さらに、「外面のどんな出来事、どんなに小さな出来事にも絶えず活発な関心を寄せるということに問わず語りに現れるあの内面の空虚である。これこそ退屈の根源なのだ。この空虚が絶えず外部的な刺激を喘ぎ求め、何ものかによって精神と心情とを活動させようとする。」(35)とあるように、彼らは、外面の出来事に関しても非常に敏感に反応し、「王侯貴族のまとう緋色の衣」(38)を保つために(それを失ったら彼に残るのは愚かでみすぼらしい自分自身のみである)他人からの目を常に気にするという性質も併せ持つ。これが、次節で考察する「人の与える印象」の過大な評価に繋がってくるのだ。
 本節において指摘したい点として、気分障害PTSDにおいてみられる≪精神鈍麻性反応≫がある。本書の論述では、内面の空虚は高度な知的能力・精神的感受性の持たない人間にみられるものとされているが、この≪精神鈍麻性反応≫はその例外といえよう。というのは、「アリストテレースが『哲学にせよ、政治・文学・芸術にせよ、すべて優れた人間は、憂鬱であるとしたものらしい』といって、傑出した優れた人間がすべて憂鬱質であることを指摘したのは、全くそのとおりである」(30,1)または、「精神的感受性が異常に大であれば、間歇的には過度の朗らかさが現れるが、主としては憂鬱が基調になるというような、気分のむらが生ずる」(30)として、気分障害病前性格として挙げられる≪循環気質≫と判断できる特徴を挙げているからである。内海(2006) の(不十分な)指摘によればこの≪循環気質≫が過剰になった場合に気分障害と診断され、症状として、≪精神鈍麻性反応≫による内面の空虚が生じる場合がある。この内海(2006)の指摘を補完する記述として、本書に「一考を要する点として、偉大な天賦の精神的才能に恵まれた者は、神経の活動が圧倒的に強烈になっているために、どんな形にもせよ、苦痛に対する感受性が極度に高まり、またこうした才能には情熱的な気質が前提条件となっているとともに、他方すべての観念が他の人間の場合よりは生々しく完全な姿をとっているということが不可分に伴っているから、観念によって引き起こされる喜怒哀楽の感情――それも快適な感情よりは不快な感情の方が多いとしたものだが――も、他の人間とは比較にならぬほど強烈であるし、また本来具有するものが多ければ多いほど他の人間に接して得られるものが少ないわけだから、偉大な天賦の精神的才能の持主は、自分以外の人間とは疎隔するようになってくる」(60,1)とある。これは、「神経の活動が圧倒的に強烈」な人間においては他の人間との接触の多さや、外界の著しい変化が内海(2006)の指摘するような≪過剰≫な状態となり、気分障害を発症し、≪感情鈍麻性反応≫が症状として表れ、内面の空虚を生じうることを示唆している 。

◇人の与える印象について
 人の与える印象についてショーペンハウアーは、「人の与える印象、すなわち他人の思惑に映じたわれわれの生き方は、われわれの本性に備わる特殊な弱みのために一般に過大に評価されている」(79)と断定する。彼によれば人の与える印象は「われわれの幸福にとって枝葉末節に属する」(79)ものであり、他人の目を過剰に気にした生き方(「他人の意見、他人の思惑の奴隷」(80)となった生き方)は腑に落ちかねるものであるようだ。むしろ、このような生き方は「幸福の重大要素たる心の安静と自主独立とに対しては、有益どころかむしろ不利な妨害的影響を及ぼす」(80)ものであるとし、他人の目に対する極度の敏感さはなるべく緩和した方が賢明であると述べられている。その根拠は、「『人のあり方』および『人の有するもの』…(筆者略)…の作用領域の存在する場所が、われわれ自身の意識だからである。これに反して、他人から見てのわれわれのあり方というものの存在する場所は、他人の意識である。すなわちそれはわれわれが他人の意識の中に映ずる映じ方としての表象、ならびにこの表象に対して適用される概念である。ところがこういったものは、…(筆者略)…われわれ自身にとってはただ間接的に存在するにすぎない。」(81)とあるように、われわれの≪あり方≫に対してそれが直接的に影響を及ぼすか間接的に影響を及ぼすかという基準によって、相対的に価値の低いものと判断される点にある。ただし、「他人の意識の中に起きることなどは、本来それ自体としては、われわれから見れば、どうあってもかまわない性質のもの」(81,2)であるが、それがわれわれの≪あり方≫にとって利益をもたらす限りにおいて、他人から見てのわれわれのあり方への配慮は、手段としての価値を有するとも指摘されている。しかし、この≪手段≫が≪目的≫となってしまっている人間が散見され、「対外的な利益を得るために対内的な損失を招くこと、すなわち栄華、栄達、豪奢、尊称、名誉のために自己の安静と余暇と独立とをすっかり、ないし、すっかりとまではいかなくてもその大部分を犠牲にすること」(46)とが起きている。これは、これまで述べたような立場からは「愚の骨頂である」(45)とされるが、この愚かさは「人間の本性の愚かしさ」(91)から生まれるものであるとし、人間の逃れがたい性質であるとも述べているが、この≪本性≫に関する根拠については本書では触れられていない。この愚かしさが人間の本性に由来するものなのかどうかについては今後の考察に譲る。しかし、この性質が、内面の空虚さに由来することは先に述べたとおりなので、今後、この性質から生まれてくる「名誉と位階と名声」(96)に関して、内面の空虚と関連させながら考察したい。
 第4章の論題は、「すなわち世間におけるわれわれの印象の与え方、言い換えれば他人の目に映ったわれわれのあり方」(96)の分析にある。これは先に挙げた「名誉と位階と名声」(96)に分けられるが、本節では「ずっとむつかしく面倒」(97)である「名誉についての論議」(97)に絞って考察を行う。名誉とは、「客観的に見ればわれわれの価値に対する他人の思惑、主観的にみればこの思惑に対するわれわれの畏怖の念である」(97)と定義される。そして、「この定義の後半の特性から――名誉を重んずる人にあっては――、決して純然たる道徳的効果ではないが、ともかく非常に有益な効果を持つ場合が少なくない。」(97)と述べられている。このような名誉に対して認められる高い価値の源泉は、「人間が単独でなしうることは何ほどもない…(筆者略)…他の人間と共同の関係に立ってこそ、人間ははじめて相当の意義を持ち、相当のことをもなし得る。…(筆者略)…それによって、人間社会の利益の分け前にあずかる資格のある一員と認められるようになりたいという気持ちがやがて心の中に動いてくる。…(筆者略)…自分がこうした一員だとみずから認めるのでなく、他人にそれを認めてもらうという点が肝心要の点だということにも、じきに気付いてくる。したがってこうしたことから他人の有利な意見すなわち好評を博そうとする熱心な努力が生まれ、他人の好評を重視する気持ちが起こってくる」と説明される。ここで、この感情すなわち名誉心もしくは恥を知る心は、「人間生来の感情に備わる本源的な激しさで現れる」とされるが、これが≪人間生来≫のものなのかは先と同様に判断を留保したい 。いずれにせよ、この名誉心を求める努力や感情が社会的性質を持つものであることが肝心な点である。なぜなら、名誉のうちいちばん広い領域を持つ市民的名誉に関して、「何ぴとも市民的名誉なしに生きることはできない」(101)と述べられるように、それが生きるための条件となっているからである。ところで、市民的名誉とは「われわれが各個人の権利を絶対無条件に尊重し、したがって自己の利益のために不正ないし不法な手段を決して用いないということをその本質としている」(101)ものであり、「それ(筆者注 名誉)を担う人が例外的な人物でないことを表すもの」(102)である。このような市民的名誉に高い価値を認める論述はショーペンハウアーの哲学にとって重要な意味を持つ。なぜなら『正編』において描かれた「個体化の原理」に基づいた人間像は、どこまでも他の人間の意志(欲望)を侵害しながら自己の意志(欲望)を追い求めるものであり、ここで提示された市民的名誉の持つ価値は、「個体化の原理」に基づいた人間の暴走に歯止めを掛けるものであると考えられ、『正編』で提示された、≪Mitleid≫ないし≪意志の否定≫以外の他の人間の意志の侵害の抑止手段と捉えられる。しかし、市民的名誉によって解決するのは、他の人間の意志の侵害のみであり、≪Mitleid≫ないし≪意志の否定≫で追求された苦痛からの解脱の可能性は持ち合わせていない。それどころか、市民的名誉の維持のための努力は苦痛を増加させるかもしれない。しかし、フロイト的にいえば≪現実原則≫に即した生き方、ゲーム理論的にいえば均衡解をみたす意思決定に基づく生き方が、「普通一般の経験的な立場」(8)という制約条件下ではSecond Best解となるのだろう。
 市民的名誉に関して考察したい点としてもうひとつ、“市民的名誉の維持のための努力の源泉と≪内面の空虚≫の関係”がある。この関係については、先に述べた市民的名誉の価値の源泉に関する説明とは直接の関係はないと考えられる。両者の関係は、≪内面の空虚≫が名誉を求める心を、虚栄を求める心まで押し上げる可能性がある、といった程度の指摘に留まるだろう。外部に認めてもらえないと自らの価値を確認できない人間(虚栄を求める人間)は、≪内面の空虚≫をもつ人間であり、虚栄心を満たしたい思いに駆られ、他人の思惑の奴隷となり、自らの幸福を外部にしか求めることができず、徒労のうちになんの価値も生み出さず時間を浪費しただけの人生を送ることになる。
 このように、≪内面の空虚≫をもつ人間の人生はみすぼらしく愚かなものになる可能性が高い。≪内面の空虚≫について考察を続けることで、この可能性についての分析を進めていきたい。