愛について

1. 問題提起
家族や恋愛関係においてみられる「俺の女」だとか「私の坊や」といった言葉には言外に独占欲、排他性の意味が色濃く滲み出てきている。これら所有の要素が持ち込まれることはどのような問題を引き起こすのか。自由と平等という二つ理念を主軸として論が展開されている。家族や恋愛関係においてはその独占欲・排他性により自由の理念とも平等の理念とも遠くはなれた所にある。それゆえ様々な弊害が発生しているが、その解消のために、ただでさえトレードオフの関係にある自由と平等という二つの理念を導入することは家族を家族たらしめているもの、恋愛を恋愛たらしめているものの否定につながるのではないか。

2. 愛の性質を記述することによる1.の論証
(i)愛は差別する
「人類愛」など分け隔てをせずすべての人を無差別に愛するといわれるものには「正義」の名が相応しい。対して、家族形成につながるような愛は、究極の特別扱い、究極のえこひいきと呼ぶべきものである。愛は差別を前提とし、構成成分とするのだ。ひとは、顔の見える範囲内のひとしか愛することができず、心理的な距離が近ければ近いほどその愛は濃く、遠ざかれば遠ざかるほど薄くなっていく。われわれ人間は、感情の濃淡によって色づけられ、地平によって限界づけられた世界の住人なのだ。

(ii)愛は苦しめる
愛とは、決して、甘く・優しく・調和のとれた・喜びと幸福感をもたらしてくれるばかりの結構ずくめの感情ではない。それは、闘いに身を投じることである。愛というものは調和や均衡などとはおよそ両立しがたいどろどろとした何事かである。

(iii)愛はアイデンティティを揺るがす
愛の問題の根底には、人間のアイデンティティ形成にかかわる問題がある。
 愛における「重要な(有意味な)他者」とは
 人間にとって、他者のなかには重要な他者とそうでない他者との区別がある。
 しかも、重要な他者の方は、われわれのアイデンティティの内部まで食い込んできており、われわれ自身の一部分をなしている。
 このような愛は平等の原理が崩れ去る場に踏み込んでいる。
 揺らぎ始める「私の自律」
 重要な他者が私のアイデンティティの内部まで食い込んでいるとき、私は、自分自身の判断にしたがって行動しているつもりでも、実は、私は、自分の一部分と化してしまっている内なる他者によって動かされている可能性がある。
 ここでは、自由の理念が浸食を受け、揺らぎ始めている。
 なにが「自分のため」でありなにが「他者のため」なのか判然としなくなる
 このように自他の輪郭が揺らぎ、私の効用関数の一項に「重要な他者」という成分が入り込んだ状況では、私の満足・判断・正義・幸せを求めるが故に他者のために自分を犠牲にすることが当然と行われうる。
 愛することは交換の世界とは異なる世界にある
 交換は「欲望の二重の一致」が条件である。このとき双方の欲望を構成する要素は互いに独立であることが要請される。しかし、先ほどみたように、愛においては互いの欲望は互いに独立ではない。そのため、愛することは、交換の世界とは別の世界の話となる。

(iv)「幸福」という理念は、自由・平等の理念に優越する
自由でないからこそ、対等でないからこそ幸福である、という可能性がある。アイデンティティの相互嵌入を前提とする独り占めをしあう状態、自己と他者の境界がぼやけるほどに二人の存在が互いに食い込みあい、そのようにして自分で動いているのか、相手に動かされているのかすら定かでなくなってしまうような状態にこそ、そのような一体感のなかでこそ、最も強烈な幸福感が経験されうる。それは、自由や平等とはほど遠いところに存在する幸福であるが、幸福故にこれら二つの理念の価値は消え失せうる。

まとめ
でも、愛だけ、だといろんな危険もあるからバランスよく!

3. より深く考えたい部分
「私の表象能力」のうちに「重要な他者」は入り込めるだろうか。発生的現象学で議論される、自我の発生、原創設などのうちにその余地がありそうである。この点が解決されれば、「重要な他者」との関わり合いにおいて、利己主義を念頭に置いたとしてもその「己」の範囲がその可能性(制約条件)からして他者を含みうることになるので、もう少し素直に愛を受け取って生きられそうな感触がある。<参考文献>
藤野寛「家族と所有」『所有のエチカ』第4章