『私を含め貴方たちは全員病人だ。』

精神障碍者――この日記を読んでいるあなたのこの言葉から汲み取るイメージはどんなものだろうか?

異端?理解不能?障害?哀れ?同情?負け犬?

これらのイメージは全て誤っている。むしろ事態は全く逆で、心に闇のない人間――そんな稀有な人間が存在するのか知れないが――こそが、精神障<<害>>者なのである。

彼らが持つのは、<<思考停止>>という暴力である。

その昔、彼らは理解不能な事態を<<神>>に託して、現代では精神障碍者という命名の檻に閉じこめられた人々を<<畏怖>>していた。――神に近い存在として。

しかし、18世紀末頃から「神は死んだ」――それまで、<<普遍―個別>>という軸を支えていた普遍的絶対的な価値観の崩壊、つまり、<<軸>>の崩壊が起きた。

崩壊――それは解き放たれた状態として<<自由>>とも解せる。しかし、<<自由>>とは人間にとってこの上ない苦痛でもあることは以前の日記で書いたとおりだ。

この<<自由>>が生まれた時期、その時期とスキゾフレニア(所謂、精神分裂病統合失調症)が生まれた時期が一致していることは偶然ではない。<<自由>>な人間、つまり、それまで自己を支えていた軸を失った人間は、その居場所のなさと膨大な責任と労力故に常に暴力を振るう。思考停止という名の暴力を。

思考停止の暴力を振るうのは簡単だ。
ただ、彼ら自身が<<自由>>により課せられた不安――逃避したいような不安――それに名前を与えること――それが、思考停止の暴力である。

彼らもまた、軸の崩壊、社会の崩壊という不安定感のただなかを思考停止の暴力によってなんとか生き抜いている病人であるのだ。

ただ、その不安定感を最も敏感に感じ取り、思考を停止できなかった真摯な人間が<<精神障碍>>を患う。

精神障碍者に与えられた使命とは、他の人間が慣れきり失った社会の病理を暴露することにある。

精神障碍者は同情の対象ではない。

むしろ私は、社会に潜む病理から思考停止により目を逸らし続ける、心に闇のない人間に同情する。

ひとの痛みを知れない人間、社会の病理を知れないで死んで行く人間、彼らの生は積み重なった思考停止の上に表層的に浮かんでる、薄っぺらな、中身のない生である。いや、むしろ彼らは生きていない。時間を消費しているだけだ。

一度限りの生をそうやって過ごすことに、私は同情を禁じ得ない。<<自由>>という病理を持った現代に生きる人々――彼らはどうにかして生きるための<<軸>>を、普遍的な権力を求めてやまない。

それを思考停止の暴力によって生き長らえたのが心の闇なき病人であり、それを作り上げられなかった、もしくは作り上げることを拒否したのが精神障碍を持った病人である。

皆、<<自由>>というウィルスに罹患した病人だ。

善く生きるためには、思考停止の暴力を他者に向けないこと、自身の軸をなんとかして作り上げること――自分自身だけの絶対的な価値観を作り上げること――自分自身が自分自身にとっての神となること――――そうしてしか善くは生きられない。

つまり、選択の問題だ。

もう少し咀嚼したら、経済学的に考えてみることにする。


(未だ帰れずにいる兵庫県芦屋市にて)