死刑について

法律には全く疎いのだけども、日々ニュースで殺人だの裁判だの報道されていれば、一定程度の関心は持つものだろう。
さらには、裁判員制度とかいうのが始まるらしいので、一国民として死刑はじめ刑罰に対する哲学を持っているべきだろうとも思う。
そこで、眠れずに朝を迎えたにあたって、私見を述べてみたい。

再度言うけれども、法律には全く疎い。私の意見が依拠するのは専ら哲学だ。
そして、その依拠する哲学の所はF.W.ニーチェに大きく偏っていることも付言しておく。


1.同情について


テレビの報道は繰り返し被害者遺族の悲痛な叫びを報じる。視聴者の同情を誘うためなのか、それにより加害者を「凶悪犯」という枠組みに押し込むためなのか、たぶんその両方だろうと思う。

しかし、同情――それはあまりに軽々しく扱われている概念に思われて仕方がない。

実際、私は被害者遺族に同情しない。正確には、同情しえない。
同情するには、その相手の苦痛や悲しみを自分の魂の中に持っていることが必要だ。
しかし、幸いにも私は肉親を殺害されたことはない。
だから、被害者遺族たちの苦痛や悲しみを窺い知ることが出来ない。

想像力のない人間だ、と言われそうなものだが、実際計り知れないであろうことに勝手に同情して、自分の知る範囲に相手の苦痛や悲しみを押し込める方がよっぽど想像力がないと思っている。

だから、私はいつもニュースの報道を見ると、加害者に同情してしまう。
それは自分の心が歪んでいたからなのか、常に人間の苦痛と悲しみばかりに思考を巡らせて生きているからなのか――ともかく私には、人を殺めてしまった「殺人鬼」の心情に関してはある程度その魂を心に持っている。
しかし、幸いにも私はまだ人を殺めたことはないので、そこまで至った彼らの魂のすべてを窺い知ることは出来ないが。

しかし、どちらにせよ、この「同情」が私が死刑やその他の刑罰に対して考える際の最大の論点であることには変わりない。

2.青白い犯罪者

死刑廃止論者の方々は奇妙なことを言う。
「加害者の人権」とかいうやつ。死刑はその侵害に他ならないとかって。

奇妙な話だ。加害者の人権を重視するなら、それこそ死刑はあるべきだろう。

死刑は、被害者遺族の復讐の手段のように思われる。
復讐?殺人者を殺したところで、あなたの悲しみはなんら変わらないと想いますけども。
犯罪抑制効果?死刑が怖いから人を殺すか殺さないかで殺人者は悩んじゃいないだろうになにを意味不明なことを。

殺人を想う人間は常に、発露する方法を失った不満と苦悩の凝り固まった魂と、自らの良心のうちで葛藤している。彼を取り巻く環境が作り上げた彼の歪んだ魂と、だ。

遂に人を殺めるに至り、殺人者となった彼は、良心の責め苦に遭うか、それでも彼の凝り固まった歪んだ魂になんの発露もえられなかったか、そのどちらかだ。

どちらも、あまりに不幸。あまりにも苦痛。
その不幸と苦痛とか、彼を青白くする。

その彼の魂を救済する手段はもはや死刑しかあるまいな、と私は考える。
復讐ではなく、救済としての死刑、という考えは現在あるのだろうか。


復讐は嫌いだ。
ましてや、自分じゃない力を借りての復讐なんてまっぴらごめんだ。

私は、自分の心がどちらかといえば犯罪者に近いので、そちらに強く同情する。そして、それ故に死刑を支持する。

自分が裁判員として選出されたら、そう言うだろう。
そう言ったら、適正がない、とか言われるだろうか。

【参考文献】
ニーチェツァラトゥストラ』第一章「青白い犯罪者」
ニーチェ道徳の系譜
その他諸々