マスターの最期の消失マジック

昨日21日午後10時をもって国立邪宗門が閉店した。

てっきりあの建物はマスターの所有物だと思っていたら、賃貸だったらしい。

実にあのマスターらしい。

もう今日からは元従業員すらあの建物に入ることすらできないらしい。

当然あると思っていたものが突然ぱっと姿を消す。

まさに消失マジックだ。

マスターの、最期の、奇術。


きっと、昨日だって、空の上から見ていたに違いない。


喪。

このことについて考えるのは三回目?四回目だったか。

「喪に服す」というのは、故人に対してだけでなくて、失恋だとか、閉店だとか、そういう場合にも必要な作業だと思う。

つまり一般化すれば、ある対象に強い愛情が向かっている状態で、突如その対象がなくなった状況に対して「喪に服す」作業は必要なんだと思っている。

「喪に服す」ことは、とても辛い作業だ。大抵の人はそれを途中で投げ出す。俺自身も、完全には自信がない。

「喪に服す」とは、その対象に向かっていた強い愛情というベクトルをゼロまで、消え去るまで、泣き尽くし、悲しみ尽くすことだ。

忘れろ、ってことではない。むしろ「愛」を込めてその記憶を心に持っているべきだ。ただ、それを、「向けさせない」ことが要になる。

それを途中で投げ出した人は、ある対象に向かっていた愛情というベクトルの向かう先を別のものにみつけようとする。

別れた彼女の面影を新しい子に探し求めたり、
亡くした人との思い出を別のものに求めたり、

そういう経験はだれにでもあると思う。

しかし、そういった行為は、絶対にゴールへはたどり着かない。

ゴールはもう、ないのだから。永遠に辿り着くことは、できない。

それを知らずにいつかそこに辿り着くと信じて彷徨い続ける愛情は、時として自分に回帰し、蝕み、心を殺していく。

(※ちなみにこれはフロイトの言う精神病の典型的なパターンで、例に漏れず「喪に服す」ことを知らなかった俺は過去にこれに引っかかった。その後遺症は今も心の底を流れている。)

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そう、だからこそ、今回の閉店は「消失マジック」でなければならなかった。

そこまでお見通しのマスターはほんとうに人の心ってものをわかっているんだなと尊敬の念を抱く。

そして、消え去った「邪宗門」は、みんなの心の内に「愛」として残り続ける。


ただ、「愛情」が終えるまでは、もう少し、泣かせてください。こっそり泣きますから。

まだそこまで人間できちゃいないっすよ、マスター。笑