「言葉にならない」とはなんだろうか

圧倒的な景観、心を揺るがす藝術に触れたとき、「言葉にならない」と、私たちは言う。
「言葉にならない」とはなんだろうか。
その景観や藝術を表現する言葉がない、と考えるのは誤りだ。
その考えは、すでに客観的に景観や藝術が存在して、それをわたしたちが認識し、言語化するという、主/客図式(=自分/自分以外という区分)を前提としている。
しかし、事態はまったく異なるのである。
景観や藝術を言語化することは、それらを対象化することだ。対象化の働きを行うのはわたしたちの意識である。
意識の働き(=対象化の働き)が主/客図式(=自分/自分以外という区分)を成り立たせている。
すると、「言葉にならない」という事態、つまり、対象化が働かない事態とは、意識の(一時的な)機能不全である。
主客未分化の状態だ。
それでは、意識の機能不全はなにを引き起こすか。
普段生活する日常世界の瓦解である。どういうことか。
わたしたちは普段、自分の身体にはじまり、環界のすべてを意識の働きによって対象化することによって、ものを認識し、使用している。
対象化の働きのうえに日常世界が成り立っているのだ。
すると、意識の機能不全である「言葉にならない」状態とは、非日常という概念には収まらず、日常世界・生活世界の外側の世界、すなわち、死・永遠の世界に属するといえるのではないか。
木村敏はこれを第三の狂気と呼んだ。
第三の狂気とは、「日常性を保証する理性的認識の座としての意識の解体」であり、愛、藝術、災害、旅など非理性・非日常の瞬間に立ち現れうる。(木村敏『時間と自己』)
すなわち、死の世界の側から生の世界を眺めるという異常体験である。その異常体験は祝祭となる、と木村は述べる。
「生がその祝祭を祝うのは、必ず死の間近においてである。」(ibid.)
そしてこの祝祭において、主体は一瞬の間意識の強い変容を経験するという異常体験を経験する。
これがアウラ体験である、と木村は述べる。
つまり、「言葉にならない」とは、意識の機能不全に伴う狂気の場であり、強い快感を伴うアウラ体験なのだ。