先天性「疾患」或いは先天性≪疾患≫
先天性−−という言葉を聞くと、その後に思い浮かぶ言葉は「疾患」だろう。
しかし、先天性の名の下に、生まれながらにして天から先ずもって与えられるものは「疾患」だけではない。
ただ、その「疾患」に、社会が付けた名前が偶然あって、その「疾患」がそれをもって生まれた人間にとってなんらかの支障をきたすため、「疾患」は「疾患」と呼ばれ特別視されているにすぎない。
だれもが、生まれながらにして天から先ずもって≪疾患≫を与えられている。
遺伝子だとか、DNAだとか、それらはだれもが生まれながらにして持つ≪疾患≫だ。
ここであえて≪疾患≫と呼ぶことにしたのは、常識には反するだろう。
しかし、≪疾患≫という語の方がしっくりくるのでそうした。
「その不具の者たちの不具を取り除くな。それは救済ではない。不具のものたちの不具は彼らの魂である。」
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部『救済』より抜粋)
不具・・・≪疾患≫を先ずもってすべての人びとは生きている。人間は白紙状態では生まれない。
そして、その≪疾患≫をもちながら生きているから、人びとはそれぞれ違った人生を歩み、違った魂を持つ。人間のスタート地点は同じではない。
数ある≪疾患≫のうち「疾患」と呼ばれるものをもって生まれたひとをみれば、それはとても明瞭だ。
彼らは、その「疾患」故に生まれてから死ぬまで長患いし、それ故に、さまざまな苦悩に直面する。
そして、その苦悩にであったこと、そしてそれを精神的に乗り越えることで、彼らはひとつ魂を獲得していく。
それが積み重なり、彼らの魂は彼らの思想となり、生き様を決める。
それは「疾患」のみならず≪疾患≫の場合も同様だ。
人間は生まれ持って、ある制約条件の中で生きている。ただ、それを意識しているかしていないかの違いだけが「疾患」と≪疾患≫を隔てている。
それぞれの制約条件が、それぞれの最適解を導き出す。
人間は制約条件があってはじめて魂を持ち、生きようと動き出す。
自分の制約条件はなにか。
そこで得た魂とはなにか。
その最適化の解はなにか。
そういった省察の上になされる「生きる」こそ、真に人間らしいと思う。
後天的な制約条件によって生きる人間は生きていない。彼らは、「生きさせられている」。
「天から先ずもって受けた≪疾患≫−−制約条件−−をみつめること」
それが「生きる」ことの最初の条件であり、最大の条件だろうと思う。