愛 ―エゴイズムの向こう側―

私には私の世界しかない。

私には私の居場所しかない。

そのことを知るとき、世に溢れる愛だとかいうものは、結局、私を満たすためだけのエゴイズムの行為でしかないことを知る。

孤独が嫌で、私の居場所が居心地がわるくて、私の不安と苦しみをわかってもらいたくて――結局は私が満ち足りたいから、ひとはあなたを愛そうとする。

けれどそこに到達することは、ない。私が私の居場所にしかいられない以上は、ない。

私の居場所しかないことから生まれるエゴイズムは、常に私の居場所を満ち足りたものにするために躍起になる。

あなたに尽くす私も、結局は、私の部屋を綺麗に飾りたいだけ。

私の部屋――私がそこから出ることはとても困難で、苦しくて、誰もが結局はそこに閉じこもる。

あなたの部屋――それは堅く閉ざされて、窓から覗く光の中にあなたをみることしか私にはできない。

その圧倒的な断絶の向こう側はあるのか?

その壁の亀裂に私は向かえるのか?向かう勇気があるのか?

その向こう側で、私の部屋にあなたを迎え、あなたの部屋に私が出向くことは可能なのか?

その可能性のなかで、与え、与えられ続けることのなかにしか、愛という名で語れるものはないのだと思う。

愛――圧倒的な不可能性に満ちた、あなたとの断絶の向こう側。

向かうことは可能なのか?
そして、向かうだけの勇気がひとにはあるのか?

あなたという無限の外部を背負うことは、ひとというちっぽけな生き物に可能なことなのだろうか?

普段、愛と呼び慣わしているもの。それがエゴイズムの塊なら、私はそれを受け入れるほどに不正義が好きではない。

けれど、そうでない愛など可能なのだろうか。