il y a−ただ、そこに在る−

三両編成のオレンジと緑の電車が高崎を出るころ、不思議と心が落ち着いてくるのを感じた。

夜の車窓から見える景色には灯りは乏しく、生い茂る稲穂が薄暗い闇に浮かんでいる。

ここでは、分節化以前が存在するのだと感じた。

都会はなにもかもが分節化されている。
建物や道路、樹木さえも自らの領有権を主張しひしめき合っている。そして人々さえも。
「これにはこうこうこのような意味があり、だれそれにはこのような意義がある。だからここにありうるのであって、必要があるからそこにいるのだ。」
そんな都会の思考は、どうしても疲れてしまう。

自分の意義を自ら見つけないと生きえない都会で生き長らえるのは、どうしても疲れてしまう。


もう一度車窓から臨む景色を眺めてみる。

そこには森が見え、山が聳え、川が流れていた。

それらは人々がなんらかの意味づけを行う以前から存在してきたし、これからも在り続けるだろう。

これから着くであろう中之条町沢田地区はその中央を川が流れ、その両側の河岸段丘の一部にひっそりと民家が並んでいる。

人々が意味づけをしようとするずっと前から確かに在った世界がまずそこにあり、人々はそこへ後からやってきた。

意味づけを必要とせずに存在する山々と川に囲まれたそこでは、人々はそれらに対し謙虚に生きている。意味づけができなくとも存在するものを認めている。

結局、人間は自然現象の一部に過ぎないだろう。川や山々が意味づけなしに存在しうるのに、どこに人々がそのようには存在できないという必然性があろう?


電車は渋川を過ぎる。山々はより深くなってゆく。


アイデンティティ

自分らしさ?

それらの必要性の必然性がどこにあろう?


とかく、気が休まる。そこでは気負うものはなにもなくなる。

川辺を走る吾妻線はまもなく中之条駅へと着こうとしている。

意味を失った「ただそこにいる」は、恐怖ではない。
この上ない安心である。


駅に電車が停まる。
明日起きたら、温泉にでも行こうと思う。