ことばと気持ち

ことばと気持ちの関係は不思議なものだと思います。

「気持ちが先にあって、その湧き出た気持ちをことばによって表現する」

・・・それが普通の考えなのかな、と思うのですが、ほんとうはそれは反対なんじゃないかと思うんです。


「ことばがあるから、気持ちが湧き出るのである」 と。


ことばってのは、いろいろなもの間に境界線を引くものなのでしょう。
悲しいと切ないが違う気持ちなのは、ことばがそのふたつの気持ちに境界線を引いているからでしょう。

どんな気持ちも、それにことばが割り当てられていなければそれは存在することができない。

そしてひとは、そのことばのネットワーク上でしか生きられない。


このことは、ある不思議な現象を生み出します。
それは、高校のころの自分の経験なのですが、ちょっとそれを思い出す機会があったのでそれについて書いてみようかな、と思った次第です。


その頃、「ひとりで全部なんとかしなければ」という脅迫にも似た観念に心が抑えつけられていました。
それはその頃、ひとに心を見せるという行為が怖かったからでもありましょうし、底辺進学校でひとりきりで一橋を目指さなければいけなかったということも影響しておりましょう。
友達はいましたが、ほんとうに心のうちを見せられていたかといえばそうではなく、なにかそうすることに対し心に枷がはめられていたように思います。

そうにひとりで生きることは、やはり辛いものだったようです。
そして、その「辛い」ということばを発する相手がどこにもいなかったことにより、私は「辛い」ということばをどこかに放逐してしまったのです。

「辛い、けれど誰にもそれを吐露できない。自分ひとりで耐えなければ。。。」
その苦悩は、いつしか「辛い」ということばをどこかに追いやってしまいました。


そして私は、「辛い」という気持ちを忘れました。


そう、その一人きりの生活は、まるで辛いと感じられなかったのです。

・・・その、当時は。



そして、それはもう高校生活も終盤のこと、ふとしたきっかけで堰を切ったように泣き喚き、辺り構わず暴れました。
そのときになって初めて「辛い」と家族に言い、そうして初めて「辛い」という気持ちが心に溢れてきました。

その後になって思い返すと、人前であまり笑わなくなっていた自分や家に帰るといつも不機嫌だった自分に初めて気がつきました。

「辛い」ということばを失い、「辛い」という気持ちを失った自分の心が着々と蝕まれていたのをそのときになって初めて知りました。

全ての素因は、<自分が一人であったこと>あるのだろうか、と思います。
そして、全ての原因は「自分は一人である」という自分自身への脅迫が私から「辛い」ということばを奪ったことにあるのだと思います。


例えば、普段はなんともなさそうに元気にしているし、話を聞いても大丈夫だとしか言わないひとが酔った勢いで泣き喚いたり、暴れたり・・・
それは、彼がことばを奪われていることでその泣き喚いたり暴れたりする気持ちをそもそも彼自身、知らないのかもしれません。

そしたら、彼のことばを救済することが、処方となりうるのでしょうか。
意識の俎上から追いやられた<ことば>と<気持ち>を抑圧された無意識から取り返すこと、
それはどうやったら可能になるのでしょうか。
まだよくわかりません。