弱さ、それこそがひとを強くするのかもしれない

1)自分の人生を振り返ってみてください。

  あなたはそれを肯定できますか?
  辛かった過去も含めて、「それでも、よし。」と言えますか?

2)あなたは自分をどんな人間だと思っていますか?

  自信家?優しい?弱い?

ひととは、《それまでの人生》という過去の時間の《束》です。

そして、こういうようなことを考えるとき、ひとはその束のなかから、自分に都合のよいような糸を選び抜いて、《そうありたい自分》を編み上げています。

《そうありたい自分》とは、アイデンティティとも言えるでしょう。

アイデンティティはその本質からして、揺るがないものにはなりえません。
つねに揺れ動く波の上に浮かぶ、危ういいかだのようなものです。
そしてひとはそのいかだをできるだけ揺れないようにしようと、あの手この手を使います。
いかだにはいかりはついていません。そこにとどまることはできません。

いまの自分、いま、自分が「こうだ」と思う自分。
それは、束から恣意的に選び抜いた糸で編まれた編み物でしかありません。
「こうだ」と思うために、ひとは自分の過去を作り替えます。都合のよい過去、編み込むのによい糸だけをみようとします。

たとえば、母が夭折した子供は、人生をどう生きるでしょうか?
辛い、辛い、と思って過ごす幼少時代。

しかし、成人したとき、彼の人生はもう辛くなく、母がいる他のひとよりも強く生きている自分を母に誇っているかもしれません。

それは、辛い、辛い、という思いの中で生きてきた彼の意識が、彼の過去の束のうち、辛かった部分の糸を捨てて、それによって得られた強さの糸だけから彼を編んでいるからかもしれません。
彼の強さは、「辛い、辛い」という思いが生み出したものかもしれません。

たとえば、自信家のひとはほんとうに自信に満ちた人生を送ってきたのでしょうか?

もしかしたら、彼の自信は、虐げられ人間不信になったことのある彼の過去がつくりだしたものかもしれません。
人間不信になって自分が信じられなくて自信を喪失していた過去。
その過去の存在が、彼の意識に「自分を守るために自信がつくような糸を選んで自分を編め」と命じていた結果かもしれません。
彼はいま、ほんとうに自信家であったとしても、その自信は、自信がなかったころの彼の記憶が生み出したのかもしれません。

「ひとは、本質的に弱い。」
僕はそう思っています。弱いからこそ、強さを求め、安定を求めるのだと思います。

ひとは、変化を嫌います。不確実性におびえます。
それは、ひとが本質的に弱いから、弱いからこそ、いまの強さを、安定を、脅かされたくないからだと思います。

ひとの幸せな人生、強さは、《弱さ》の働きかけで作り出されたものかもしれません。
《弱さ》があるからこそ、いかだを何度も修繕して強くみせたり、波を立てないようにして安定を求めたり、いまある幸せを手放したがらなかったりします。


だとしたら。

逆に考えてみてみよう。

「自分は弱い」と思えているひとほど、自分の本質に迫れる可能性をもったひとなのではないだろうか?

《弱さ》を認識すること。
そのことは、《弱さ》のもつ力を目覚めさせます。
《弱さ》は自分を作り上げる力を持っています。

《弱さ》ほど強い意志をもった、アイデンティティをつくる道具はないと思います。

《弱さ》をみつめれば、みつめるほど、そのひとは強くなれる。

それにはいくつかの勇気が必要です。

自分に自分で塗ったか、他人や社会に塗ってもらったメッキをはがす勇気。
それを見つめる勇気。
そして、その《弱さ》に新たなメッキを塗る勇気。

メッキを塗らないと錆びてしまうから、一番大事なのは、新たなメッキを塗る勇気何だろうと思います。

それ以外のふたつの勇気を含めて、これらはひとりではそうそうできるものではありません。
メッキのはげた自分、ほんとうに《弱い》自分、それをみせられる人が必要で、そしてその人に新しいメッキを塗るお手伝いをしてもらわなければなりません。

ひとりでメッキを塗るよりも、誰かに手伝ってもらったほうが、むらなく、手が届かないところも塗ってもらえますからね。


ひとの生のほとんどは、《弱さ》に塗りたくられたメッキからできていると思います。
けれど、それがメッキだからといって悪いことはなにもなくて、メッキでもそれが綺麗なら、しっかりと塗られていれば、それでいいのだと思います。

むしろ、そうでしかひとは在れないのだと思います。


そうやって作られた、アイデンティティ
それをなんとか保とうと必死にさらに自分にメッキを重ね塗りして生きるひとびと。

そうでしかあれない、生の形式。



      • こんなことを考えさせられた第一回副ゼミでした。