あれから…

 過去は、それ自体として存在するのではなくて、それを現在の自分がどう解釈するかに依存して存在する。
 だから、全ての過去は−−それがその当時とても辛いものだったとしても−−「由し」と、「そう欲した」と言うことができる。

 だから、自分の一年前を振り返ったときに、あのときのあの選択を「由し」と言えるようになること、それへの意志があれからのこの一年を通底して存在していたように思える。

 あの選択−−一年前の5月3日午前、部を退部した。
 −−選択、と言うにはあまりに差し迫っていて、他の選択肢の余地はほとんどなかったが、自分が決めたんだから、これも選択なんだろうと思う。

 今でもはっきりと思い出せる。
 小雨の降る午前8時半、職員集会所前。前日の総務コンパから朝まで最後の部室で一緒に過ごした、主将といた。
 なぜか思い出すのは、本当にくだらない思い出ばかりで(LTだとか)、コンパのせいでくだっていたお腹とは対照的だった。

 その少し後、職員集会所裏。生涯忘れないであろうこと。

 そして午前9時、本当に最後の部室。最後の部室の風景は涙にかすんでよく思い出せない。2年間の思い出が溢れてきて、言葉が詰まって言いたいことの10分の1も言えなかったのを覚えている。

 全てが終わって、部室を出る。喚くように泣いた。優しく受け止めてくれた先輩。階段を下りて、常駐スペースでぼんやりしていた。


 そのときの自分にとってあの一日はどんな意味をもっていたのだろう。すべてが終わった日だったろうか、なにもかも失った日だったのだろうか。

 たしかに、失ったものは大きすぎた。
 心に空いた穴をふさぐ自信は、すぐには見つからなかった。

 けれども、あれから・・・。あれから、一年。もう、と言うべきなのか、長かった、と言うべきなのか、その判断すら交錯する。
 ともかく、あれから一年が経った。

 今の自分は、あのときの自分を「由し」と言えるだろうか。

 おしなべて≪よい≫現在とは、過去のすべてを「由し」と言えることの上に成り立っている。現在がよいものでなかったとしたら、その現在を創り出した過去を「由し」と言うことはできないだろう。そして逆に−−この≪逆≫もまた真であると自分では思っているが−−現在を「由し」と言えるということは、その時点で自分のすべての過去を「由し」と言っていることと同じ意味を持つ。

 だとしたら、自分は、この現在を「由し」と言いたい。
 そして、あの過去を「由し」と言いたい。

 心に穴がなければそこにはなにもはいらない。
 心に穴があるからこそ、そこになにかをいれることができる。

 そして、心にできた穴は、溝が水を引き込むように新たなものを引き込む力を持っている。そしてそれこそが、心の穴が新たなものを引き込む力こそが、ひとの成長の原動力の大きなひとつであると思う。

 踏めばその地は堅くなる。より強固になる。
 それが心だとしても、それは同じだ。

 いま、自分の現在を、過去を、「由し」と言う自分は、それだけ成長できたと、それだけ強くなれたと信じたい。

 心の穴は、悲しみは、時間に慰められるようにして、その穴、その悲しみに慣れるようにして癒されるのではあってはならない。辛いとき、悲しいときこそ、ひとは凛としてそれを見つめ、乗り越えようとしなければならない。それのみが心のみじめな安逸を超えるあり方だ。

 あれからのこの一年。自分は自分の心の弱さと戦ってきた。なんども挫けそうになった。けれど、いろいろなひとに支えながらも自分は立ち続けた。そして立ち向かい続けた。
 だからいま、こうして生きている。こうして「由し」と言える自分がいる。

 だから、この一年、すべての自分を支えてくれた人たちに伝えたい。

 「私は、いま、生きていて幸せです。
  いまを由しとして、前をしっかりと向いて生きていくつもりです。」

 
 みじめな安逸には生きない。どんな困難も目を逸らさない。

 あれからの一年を経て、これからの一年をしっかりと見据えられるようになった。
 そしてその、「これからの一年」、強く生きていきたいと思う。

 以上、長くなりましたが、この一年を振り返って思うことを記しました。

                            2008年5月6日−−
                             入部から3年と34日。
                             退部から1年と3日。