なぜ挫折したら辛いのか

「すべては仮象、それを絶対だと取り違えるから生きづらい。」

私たちは、いつもなにかの目的に向かって生きている。

「大学に合格しなければ。」そう高校時代は思い、
「自分を変えなければ。」そう大学に入学して思い、
「部活をがんばりたい。」そう応援部時代に思い、
「休養しなければ。」そう大学二年の後半に思い、
「就職しなければ。」そう大学三年の前半に思い、
「大学院に行きたい。」そう大学三年の後半に思った。

達成された目的もあれば、達成されなかった目的もある。
もちろん、目的は達成されることを願っているからこそ目的なんだから、達成されなかったときには挫折を感じるものだ。
そうして、何度も挫折を繰り返してきた。

なぜ、挫折するのか。もう少し考えてみる。
目的は「達成されること」を願っているから・・・そうにさっき言った。
でも正確には、目的は「達成されなければいけない」と思っているから達成されなかったときには挫折を感じる、なんじゃないだろうかと思う。

最初は、「こうしたい、こうなりたい」という自分の素直な欲求が形作った目的は希望にあふれるもののはずだった。
けれど、気づけばそれが、「こうしなければいけない、こうならなければいけない」になって、自分を責め立てるようになる。
宗教の教義だって、最初は「こうしたい、こうなりたい」だったものが、気づけば「戒律」に姿を変えて、そこに生きるひとの枷となるのじゃないだろうか。

さらに、目的がそもそも自分の素直な欲求からのみ形作られたものでなかったとき、それはより顕著になる。
例えば、「新卒でよい企業に就職すればよい将来を生きられる」という社会の敷いたレールは、私たちにその最初から「新卒でよい企業に就職しなければよい将来は生きられない」という重い枷となって与えられる。
そういう、「与えられた目的」に生きなければいけないとき、私たちはしばしば辛い思いをするし、それに挫折したときにより大きな挫折を味わう。

では、なぜ「こうしたい、こうなりたい」が「こうしなければいけない、こうならなければいけない」に、「新卒でよい企業に就職すればよい将来が生きられる」が「新卒でよい企業に就職しなければよい将来は生きられない」に作り替えられてしまうのだろうか。

まず確認しなければいけないのが、こうした諸々の目的はすべて、私たちが作り出したものにすぎないという重要な事実だ。
結局突き詰めれば、諸々の目的には根本的な意味は存在せず、あるところで「私たちがそうしたから」に突き当たる。
それらはなんら絶対的な意味をもたない。

だとしたら、ある目的をあたかも絶対的なものかのように信じて、その目的に帰依するようにして生きる必要はどこにもない。また、それを正面切って信じきるだけの理由はどこにもない。

ただ、いつしかその目的に邁進しつづけるなかで、「自分が勝手に作り出した」ということを忘れ、その目的に向かう中に自分の意味を見出してしまい、その意味を失ってしまうのが怖くなっただけの話だ。
もちろん、そこでみつけた意味なんてものも自分が勝手に作り出したものの産物で、まったく信じるに値しない。

あらゆる目的も、意味も、信じるに値しない。
たとえそれが、社会が与えたものであっても、それは変わらない事実だ。


だとしたら、話は簡単だ。
どんな目的も、意味も、結局は信じるに値しないんだから、どんな目的や意味を自分が信じようと、どれも絶対的なものじゃないという点において等しい価値を持つ。

だったら、自分の好きなように、自分に都合の良いように、好きな目的を信じて、そこに自分の好きなように自分の意味を見つけて生きたらなんら問題はないじゃないか。

すべては虚妄だと知れば、いま信じている目的や意味を失いそうになったとしても、なんら恐れるものはないじゃないか。
結局はそれは絶対的なものじゃないんだし、その代わりになる目的や意味なんてものはいくらでもあるわけだ。(まぁ、その目的や意味も虚妄なんだけども。)

生きることが上手くいかないことに苦しめられ、その結果すべてを諦め絶望する必要はない。
デカダンスは乗り越えられるべきものだ。



「『すべての”そうあった”を”そう自分が欲した”に作り替える』それが私が救済と呼びたいものだ」
                −−『ツァラトゥストラはかく語りき』第二部「救済」より


・・・とか考えてた今回の副ゼミ。