葉桜 −美しさとはなにか−

雨桜に引き続き、桜日記第二弾。今日は「葉桜」です。
みなさんは葉桜にどんな印象を持っていますか?端的に、美しいですか?美しくないですか?
多くの人は、満開の桜に比べたら葉桜は美しくない、と答えるのではないでしょうか。

けれど、それは人のココロのありようによっては、満開の桜、とまでは行きませんが、ある種違った視線から葉桜を美しいと思う瞬間も存在するのではないでしょうか。

今日はやたら早起きしたせいで午後1時ころには元気が下降ぎみでした。
でもまぁ、そんなひどくなかったから「たまには元気のないココロの視る世界でも楽しむかー」とか考えて後輩とだらだら散歩したりしてました。

不思議なもので、頽廃したココロには頽廃した景色が美しくみえるもののようで、昨日には「あー、もう桜も葉桜になっちゃったよ。葉桜とか中途半端なんかんじだし、美しさとかまるで感じないしー。」とかってみていた葉桜がその時ばかりはとても美しく感じられました。

その時の自分には「この下降、没落していく感じが憂愁を感じさせて、美しい桜もこうした頽廃した一面をみせるんだ」と感じられ、その感じがその時のココロと重なり合って、「この葉桜は美しい」と感じました。

まぁ、なんていうか難しい話をすればフッサールにはじまる現象学がこんなよーなことを考えていたみたいですけども。現象学者ならば、そこにみえるものには触れることができるらしいですよ。それは自分のココロがみせているひとつの主観的な現実なのだから。

話を戻しましょう。人はなにを「美しい」と感じるのでしょうか。

自分なりの一つの答えは、「その時のココロのありように一番近いもの」です。

満開の桜を美しいと思うとき、その人のココロは満開の桜のように溢れかえっているのでしょう。もしくは、満開の桜のようにありたいと思っているのでしょう。

夜桜を美しいと思うとき、その人のココロはその闇と光が均衡した状態にあるのでしょう。

雨桜を美しいと思うとき、その人のココロはその憂鬱の中に一条の救いの光を求めているのでしょう。

葉桜を美しいと思うとき、その人のココロは頽廃し没落していこうとしているのでしょう。


僕の部屋にはさまざまなジャンルのCDが置いてあります。ロック、パンク、ポップス、J-POP、ジャズ、シャンソンなどなど。
それは、自分のココロがその時求めた音楽を聴けるように、との考えからです。

ココロが爽やかな朝のようなときは、明るいポップスのJason Mrazか、明るいジャズのCharie Parkerを聴きます。
ココロが少し沈んだ夜のようなときは、EGO-WRAPPIN’やその他、悲しめのロック(Sum41のChack、No Use for NameのFeels Like Home、StingのShape of My Heartなどなど)を聴きます。
ココロが荒れて苛々しているときには、Billy TalentやBad Religionなどのパンク、パンクロックを聴きます。

そしてそのような音楽は、自分のココロに染み渡るように響き、自分のココロを安定へと浄化してくれます。

「感情をいかに理論(=言葉)に昇華できるかが、人生をより豊かにする」

感情という捉えどころがないものを、理論に、言葉に昇華できれば、その感情はある程度は操作できるようになります。経営学でよく言われる「見える化」というやつですね。
そして、今回述べたようなプロセスを遡及的に−逆から−たどれば、そのとき美しいと思ったものからたどれば、自分の今のココロの状態がわかるのではないでしょうか。

より自分を高揚させる生は、どれだけ自分を、自分の言葉で捉えられるか、というところから始まるのだと思います。ココロの状態の把握はその一助になると考えています。

それでは、おやすみなさい。