「喫煙所で吸ったらいいじゃないですか」

登戸の蓮爾(はすみ。二郎系ラーメン屋)へ行くために国立駅ホームの東側階段を上ったところで電車を待っていた。

後ろで、工場現場から出てきたような二人の男が横領について楽しそうに話している。

振り向いてみる。

その男の指にはタバコが挟まれていた。火はまだ点いていない。

喫煙所がすぐそこにあるんだから、ここで吸うことないんにな――そう思った。
同時に、「喫煙所で吸ったらいいじゃないですか」という言葉が出かけた。

それをすんでのところで飲み込んだのは、なんで自分がそう思ったのか分からなかったから。

自分はタバコ嫌いではないし、その煙も気にならない。自分には何の害もない。
別に全くもってここでその男に吸ってもらっても構わない…はずだった。

けれど現に自分はそうは動いてなく、後付けの屁理屈をこねて、「これだから喫煙者の肩身が狭くなる」とか考えるのも煩わしく感じられた。

そして、「社会的通念がそうさせる」という考えがよぎったが、そういう生き方――「汝なすべし」に屈するような――は好きではないので、それも退けたとすると、なにが自分にそう思わせたのだろうか。

そうだ。「利己的な個人」は間違った仮定かもしれない。現に今自分は、自分にとってなんの得もないことをしようとしていた。
時に人は、自分の利得を低めてまで、自分以外のために行動するのかもしれない。
納得したくないが、現に自分にあったことだし、認める他ないだろう。

しかし、それはなぜだろうか?


そう思ったところで電車が到着した。

もうタバコに火を点け、煙をくゆらせていた男に注意しようかとも思ったが、やっぱり煩わしいので止めておいた。