力への意志

F.W.ニーチェツァラトゥストラ』(中公クラシック)訳者(三島憲一)前書きより

「弱い」者であるほど、負け犬であるほど「力への意志」が強い。


では、「力への意志」とはなにか。

ニーチェは、およそ人間が、ちょっとした日常のさやあてやかけひきで、なんでもない会話で、いかに相手より自分の方が上にくるように工夫するかを、手を替え品を替え暴露する。自ら暴露心理学と称するとおりである。
たとえ、嘘でも自分がよく思われると人間は嬉しいし、優越感を味わう。
こうした虚栄心のゲームの中に、優越への意志、見下したい欲望、その意味では力への意志が展開されている。
どんな人間でも、自分がある分野で強くなければ、自分が強い土俵へ相手を誘導して、そこで組み伏せようとする。その意味では話題設定の枠組みすら都合のいい方向へと持っていこうとする。
こうしたどこか虚しい競い合いをニーチェは…(中略)。

同じことは宗教についても言えるとニーチェは考える。この世で「弱い」者ほど天国で「義人」とされると説くキリストの教えは、まさにこの世でないところに、たとえ架空であっても別の土俵を、そこでなら自分がこの世の支配者に勝てる土俵を作って得意になろうとする。
こうした欲望こそ「力への意志」とされる。

キリスト教だけでなく、イデアの世界を説いたギリシアソクラテスプラトンにしても同じことである。そして彼らの強調する理論的人間から近代の自然科学が発達したことを考えると、ひょっとすると真理のためと称する学問も「力への意志」に依拠しているのではないか、ということになる。
自然を支配し、利用しようとする人間の望みと、たとえ虚構の世界においてでも他人の上に立とうとする我執とは、同じ「力への意志」ということになる。
「真理への意志は力への意志に奉仕して成長してきた」。それらは人間の自己保存のためであり、また力の感情の高揚のためでしかない。
こうニーチェは考える。