心のものさし―可能性が、希望が、人を苦しめ殺すことだってある

あなたは何故生きていますか?

仲間がいるから?
家族がいるから?

生きるということは仲間や家族といった「縁」に張り巡らされた網の上を緊張をもって渡ることだと思う。
縁は勇気や可能性になる。
同時に責任や焦燥にもなる。

人を生きさせるのは縁であり、その可能性や責任である。

しかし、同時に、その縁に人は追い込まれることもある。
可能性は責任が伴い、その責任は不可能性を帯びると共に絶望へと姿を変える。

縁の網はハンモックのように居心地が良かったりするのと同時に、捕らわれたように絡まりついて抜け出せなくなる時だってある。

そしてその縁は一方で人を生きさせようとするけれど、その一方で死にも追いやりかねない。

可能性が、希望が、人を苦しめ殺すことだってある。

生と死、希望と絶望、それは同じ事実を心という違ったものさしで測った二側面なんだと思う。

ある事実を絶望に受け取ってしまう心と、同じそれを希望に受け取れる心はなにが違っているのだろうか。

よくわからない。
単に神経伝達物質の量の差なのか?

だとすれば人とはなんて機械じみた存在なんだろう。
愛だの希望だの絶望だのも化学物質が脳にみせている幻影に過ぎないのだろうか。

いっそのこと、そう割り切ってしまったほうが楽に生きられるかもしれない。