心の安定の達成のために不可欠な不安定さ

ふとなにか沈んでいるときに決まって読む短編がある。
梶井基次郎桜の樹の下には』は、いつでもそんな沈んだ心を浄化してくれる。
この短編は読むたびに感想は違う。
それはこの短編は自分の心を映しだしている鏡だからだと思う。
桜の樹の比喩が、屍体の比喩が、その時々の心の鏡には違ったふうに見える。

健全な心に必要なのは安定ではない。均衡だ。
この短編では桜の樹の美しさと、屍体の醜さが調和して心の均衡を保っている。
是と否が止揚されて、新たな均衡を生み出している。

安定を求めることは、不安定を取り除くことなのだろうか。
この短編はそれは違うという。
安定を求めるだけでは心の均衡は保てない。どこかふらふらと頼りない。
無根拠な自信だけでは心は均衡を保ち得ない。
安定を求めることは心を柔軟なものではなくす。

不安定、自己嫌悪、それは否定的な意味を持つだけのものではない。
不安定、自己嫌悪は変化の前兆であり、心を変革させるものだ。
それは、心を新たな次元へ押し上げる可能性を持っている。

美しいだけの安定した心では生き得ない。
そこに醜い不安定な自己嫌悪があってこそ心は均衡する。

不安定に自己嫌悪を繰り返す心を押し潰そうとしてはいけない。
それには心の均衡を達成するアンチテーゼとしての意味がある。

不安定の原因を突き詰めれば、きっと安定への可能性が見えてくる。
不安定とは、現在の安定の足場をふらふらしたものから確固たるものへ変える可能性だ。

桜の樹の美しさが梶井を苦しめたものは、この美しさには不安定が存在する余地がなかったからだ。

不安定の生み出す可能性によって、心は均衡し、さらに高い次元の安定が達成される。

そう考えたら、今の不安定さから逃げないで追いかけて、原因を追及して、安定への担保にしてやろうと思う。