世界と生の有意味性について

自分は、カフェが好きだ。
特に内装が洒落ていれば尚更、コーヒーが美味しければ完璧である。

気がかりなことがある。
国立で一番好きなカフェ、憂き世からの隠れ家として愛用している邪宗門がここ最近「都合により休業」と書かれた札を下げている。
80歳を超える、愛煙家である金髪のマスターが倒れたか、などと想像をめぐらせては気ばかりが先行している。

そのような事情からここ最近、杞憂であればなと願いながら、EXCELSIORへと通っている。目的は読書。『企業価値評価』と新書『ウィトゲンシュタインはこう考えた』を交互に読み進めている。異なる分野の本を交互に読むことで集中力を持続させていて、大抵一日に5〜6時間ほどはこれらの本から知識を貪っている。

実感としてあるのは、やっと自分本来のペースを取り戻せた、という確信。自分の核が腐り落ちるように削げていった一年間を経て、残った核のさらに本質的な部分を見つめながら自分を再構築できている。

浮き足だった心が見るEXCELSIORの窓から覗く景色はとても鮮やかで、どれも原色で塗りたくりたい気分になる。そしてそれはどうやら『ウィトゲンシュタインはこう考えた』の示唆が自分にとってとても良い傾向をもたらしている、ということらしかった。

ウィトゲンシュタインによれば、言語、思考を可能にしているものは論理であり、その論理は私的なものであるが故に限界を持つらしい。

「テレビを見る」と言ったときに、「私」はなにを意図しているのか。テレビという機械?コンデンサトランジスタの集合体?もしくはそこに映し出されている映像?音声……?それは「私」の裁量に委ねられている。
このように言語はその対象の規定において私的な部分を有する。このことは、論理−−すなわち人間に「限界」の存在をもたらすと同時に、他者とは比較できない比類無き「私」の存在を可能にする。

このことから、世界と私の有意味性が導ける。

例えば、瓶があるとする。瓶の内側はどのようにして存在しているか?答えは「瓶の外側」が存在することによってである。
では、言語、思考、論理の限界という名の内側はどのようにして存在しているか?それは、限界を超越した存在によってである。ここではそれを神と定義したい。

このような神の存在を信仰することは、「外側」に意味を認めることであり、それは同時に「内側」にも意味を認めていることになる。つまりそれは、世界が、私が、意味を持つと言うことに他ならない。

また、論理が私的であるが故に「私」は世界において特別な存在となる。
世界は私的な論理でしか捉えられないのであり、あるがままの世界は存在し得ない。
自身の私的な仕方によって世界を捉えることはすなわち「私」が世界の存立にとって不可欠な要素であることを示している。

さあここで、世界は「私」によって作られており、その世界は神の信仰により意味を持つ、「私」の生は意味を持つ、ということになるが、その認識を通じて世界を見渡してみる。

全ての存在は「私」との関わり合いによって存在し、そのような存在は「私」の有意味性を通じて意味を持った輝きを放ち出す。

世界は「私」の私的な論理を通じてのみ存在する。

そしてそれらの存在は私的であるが故に、自分との関わり合いを持つが故に、輝いて見える。原色のように鮮やかに。

心が浮き足立っている。踊るようだ。
とても気分がいい。