アルトゥール・ショーペンハウアーの過誤

哲学者の言葉を読み取るとき、最も要となるのは、事実の記述と当為の記述を読み分けることにある。


アルトゥール・ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』において、生は苦悩であり、人間は、その苦悩の反作用として生を送っていることを「事実の記述」として論述した。


しかし、そこには一つの過誤がある。


それは、苦悩を生の原動力に変換する写像の認識についての過誤である。


この写像の存在は「事実」ではない。「当為」である。
故に、アルトゥール・ショーペンハウアーの論述はこれ以降、「当為の記述」となり、「事実の記述」であることは破綻する。


つまり、その「当為」をなりたたせるには、なんらかの仮象を必要としているのであり、その限りで彼らはニヒリズムを超克することに失敗している。


有り体に言えば、その仮象が構築できなくなった段階において、人間はニヒリズムの超克は不可能になる。
つまり、「すべての最高価値が価値を喪失」した状態を、「事実」として受け入れざるを得なくなる。


この論考は、彼らの論述を受け入れれば受け入れるほど、その実効性を増す、という逆説的な関係にある。


最後に、ひとは死を想うとき、必ず、その死に到達することはできない。
唯一、それが可能になるのは「快原理の彼岸」においてのみである。


つまり、無力感に陥った人間は、ニヒリズムを超克することは、「当為」なしには不可能であり、
その無力感はその人間を「快原理の彼岸」に「事実」として導きうるのである。


以上、自殺についてのひとつの論考を終える。