T.I.N.A.

柚木ティナRio)さんの話ではありません。あしからず。

サッチャーさんのお言葉でしたっけか。

"THERE IS NO ALTERNATIVE."

CSRフェアトレードといった言葉が流行っています。

常々、「なんだか嘘くさいな」と思っていたのですが、最近、これらの可能性について真剣に考えてみたいと思い始めました。

動機はなんなんでしょうね。内田樹さんのお言葉でしょうか。
その著書、『amazon:疲れすぎて眠れぬ夜のために』にこんな一節がありました。

「利己主義を追求したとき、『ほんとうの己の範囲』は自然と自分の外側へと広がっていくものです。」


この一節から、技術的外部不経済も真に「外部」なのではなくて、その経済主体にとって直接目に見える費用ではない、という意味に留まるでしょう。
その内部化はピグー課税やコースの定理などに頼らずも、その経済主体が利潤最大化のための「ほんとうの己の範囲」を認識していれば、それはその経済主体にとって費用として認識されることでその経済主体自身によって内部化される可能性があるんじゃないかな、とのインプリケーションを得た訳です。

あと、アローの一般不可能性定理についてなんですが、僕は「じゃあ、意思決定は独裁者に任せちゃえばいいじゃん」という風に考えました。

内田樹さんの言葉に触発されたこの二つの思い付きから、CSRフェアトレードへの関心が生まれてきたのでしょう。

つまり、T.I.N.A.の下では、独裁者たりえるのは恐らく企業だけであって、もし企業がそのような「ほんとうの己の範囲」を認識している主体であったならば、そのサプライチェーンの構造は利他的になる可能性がある、ということです。

ほんとうにそんなことが起こりえるのか?

学部時代にアマルティア・センに引きずり込まれていった「貧困」問題について、この可能性を検証してみたい。
そういう思いで現在、大学院入試の研究計画書を執筆しています。

具体的には、タリーズコーヒーサプライチェーンに注目し、コーヒー豆を生産する小規模農家に当該サプライチェーンがどのような影響をもたらすのか、等々を、あくまで「企業の利潤極大化動機」の下に検証したいな、と思っています。

そこで、その可能性の一端が掴めたのならば、そこから足を我が国日本へと進め、日本における「貧困」に取り組みたいと思っています。

ここでの「貧困」は「個人が構造的要因により福祉(well-being)を達成できない状態」と定義する予定です。

まずは、福祉(well-being)とはなんぞや、というところから始めなきゃいけない問題ですが、まぁ、メンタルヘルスが云々と騒がれている昨今、そういった「貧困」問題をT.I.N.A.の下で解決する論理を経済学の説得力を持ってして提示できたら幸せです。

そんなこんなで、研究計画書の締め切りまであと一週間。
真剣に考えたいと思います。

では、失礼致します。