壁――それを引き受けた先にある生の唯一の愉悦

眠れない夜に限って鋭利になっていく思考。この不眠は躁なのか?

それは置いといて。

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壁。

「壁を乗り越える」とよく言うが、それは正確な表現ではない。

まず、「壁は打ち破る」ものである。
そして、前に立ちはだかっている壁は実は虚像であり、その実像は常に自らの心にある。

「壁を乗り越える」とは、自分を打ち破ることに他ならない。精神はそうして、破壊的に成長していく。

壁……そう感じられるものは常に自分の不満、不安、不足である。

そしてそれを虚像と見抜き、自らのうちに実像を見つけ引き受けることが第一の強さである。


そして、それを悩み抜き行動し、打ち破ったときに人は新たな心を一つ手に入れる。

誰かを真に理解するとは、このようにして手に入れた心を相手の内にも見通すことをもってしかなしえない。

そして、こうして引き受けた苦悩という壁、その分だけ、人は誰かに「与える」ことができるようになる。

人がなしうることは、その人がそれまでに引き受けた壁の数と同値だ。

だから、それぞれの人はそれぞれのなしうることがあり、それは誰かと代替できるものではない。

俺は今までどれだけの壁を引き受けただろう?
それは主に、人の心の闇の部分についてだった。吐き気と共に思わず目を逸らしたくなるような心の闇についてだった。
その過程で心も病み、狂い悶え、挙げ句の果てに温度のない幸福感の中、涅槃にまで行きそうになった。

そこまでして見つめ、考え、悩み抜いた人の心の闇。

今、「与えたい」と強く俺が思うのは、その苦悩の結実だろう。引き受けた分の反作用だろう。

そして、それが俺にしかできないなしうることだろう。

まだまだ寛解とはいえないこの体調のなか、強く思うこの「与えたい」という気持ちは、この病を打ち破ろうとしている一つの契機だろう。

「与える」――それは、「引き受ける」ことの恐怖から逃げなかった人だけが享けられる、生産的な生の唯一の図式だろう。

だとしたら――この俺の、人の心の闇に対する「与えたい」という衝動――これに付き従うのは、ある一つの必然なのではないだろうか?

どうやったらそれが可能になるだろうか。
将来への途が少し見えてきた気がする。