作用-反作用 ―生きることへの回答……そして決断と勇気―

例えばあなたが壁を押すとき、あなたはそれと同じ力で壁から押されている。

作用と反作用――ニーチェはその遺稿の中でこの原理が世界のすべてだと述べていたのを過去に読んだが最近になってやっと少し咀嚼できてきた気がする。

人一般はなぜ生きるのか?

それを、死へと向かう作用の反作用と見るのは穿った見方だろうか、あまりに素朴すぎるだろうか。
しかし人が最も生を意志するのは死を強く意志する瞬間であることは確かである。

一般に人の生は、死という必然の作用の反作用でしかない。そうなのだろう。

では、人はなぜその生を充実せんとして生きるのだろうか。

それもまた、反作用であろう。――不満と不安と不足という作用の反作用。


普通、人はスタートは0だと考える。

しかし、その進む原動力が反作用なのならば、常に人のスタートはマイナスからしか起こりえない。

不満、不安、不足……それをもってして初めて人はスタートラインに着く。そこにおいて初めて自ら進み出す。

そして、歩み出した路もまた、不満と不安と不足が溢れた路であり、人はそれを避けたいと思うと同時にそれ故に進みたいとも思う。

満足や達成感といったは、マイナスから出発した路が0にたどり着いたという解放という意味か、不満と不安と不足を引き受け(その反作用としての)与えることの中に生の充実をみるかのどちらかだろう。


作用が強すぎ抗う反作用を持ち合わせなかったとき人は挫折し、そしてまたその挫折という作用故に反作用が生まれ、また立ち上がる。いや、立ち上がらなければならない。
なぜなら、それほどまでに死は絶対的な作用であり生は絶対的な反作用であるからだ。人は簡単には自らの命を絶てない。

自ら歩む路は、その原理から言って、不満と不安と不足に満ち溢れてしかいない。
その作用がなければ人は歩み出す力――反作用を持ちえないのだから。

選び採らなければいけない。
自らの不満、不安、不足とはなんなのか?自らが引き受け歩みうる不満、不安、不足とはなんなのか?

不満、不安、不足――それは人が歩み出しうる最も強い作用であり、この格差を利用したシステムが経済学ではインセンティブと呼ばれているのだろう。

全てにおいて、不満、不安、不足に根ざした欲求、欲望がまずもって先行しているのだ。

これは決してペシミストの戯言ではない。
人の生には決断と勇気が不可欠であることの一つの証明である。