<与えること>についての雑感

「与える」ってなんなのだろう?

自己犠牲?

見返り?

耐えきれない孤独からの逃避?

少なくとも、真に「相手のために」与えることなんて人間には不可能だろうけども、与えることが「弱さ」に由来しているという考えは否定したい。

今日は考えたことがある人はそんなに少なくもないだろうというこの主題についてE.フロムさんに伺ってみました。


先日、例によって寝られなかった夜に読んだ、E.フロム著『愛するということ』からしばし長くなりますが、この「与える」ことについて書かれていた箇所を引用します。

E.フロム『愛すると言うこと』p.43-4

 商人的な性格の人はよろこんで与える。ただしそれは見返りがあるときだけである。彼にとって、与えても見返りがないというのは騙されるということである。

 非生産的な性格の人は、与えることは貧しくなることだと感じている。そのため、このタイプの人はたいてい与えることをいやがる。

 与えることは犠牲を払うことだから美徳である、と考えている人もいる。そうした人たちに言わせると、与えることは苦痛だからこそ与えなければならないのだ。彼らによれば、犠牲を甘んじて受け入れる行為こそ、与えることの美徳があるのだ。彼らにとっては、もらうよりも与えるほうが良いという規範は、喜びを味あうよりも剥奪に堪えるほうが良いという意味なのだ。

きっと、ここまで読んでるような奇特な人は一度は考えたことのあるような話だと思います。

「自分がだれかに与えるとき、自分はその人のことを大切に思っているのではなくて、自分が孤独であることに耐えられなくて、ただ認めてほしくて、そこにいる理由が欲しくて与えているにすぎないんじゃないか・・・。」

フロムは以下のように続けます。

 生産的な性格の人にとっては、与えることはまったく違った意味をもつ。与えることは、自分のもてる力のもっとも高度な表現なのである。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分の力、富、権力を実感する。この生命力と権力の高まりに、私は喜びを覚える。私は、自分が生命力にあふれ、惜しみなく消費し、いきいきとしているのを実感し、それゆえに喜びを覚える。与えることはもらうよりも喜ばしい。それは剥ぎ取られるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。

フロムは、孤独こそが人間のすべての苦悩の根源である、と述べています。
だから、多くの<与える>は孤独を覆い隠す作業であり、「商人的な」「弱さ」なのだと思います。
しかし、<与える>はその消極的な意味を超える可能性があることをフロムは「生産的な性格の人」に認めます。

自分もそのような解答をなんとなく用意はしていたのだけども、フロムがはっきりと書いていてくれました。明快で、解りやすい。