湿った雨音の群れ

新しく人と知り合ったりすると、つくづく不安定な自分を感じる。

恐らくそれは三つの不安定を基としていて、そのうち本源的なのは第一の点だ。

1.自分の自分に対するイメージが確定していない
2.相手のイメージが確定していない
3.相手の自分に対するイメージが確定していない

私はあなたと直接対話することはできなくて、対話しているのは”私”という私の持つイメージと、”あなた”という私の持つイメージであると思う。”私”と”あなた”はどこまでも表象でしかなく、抽出されたイメージだ。私自身もあなた自身も実在していない。ただそこにあるのは”私”と”あなた”というシニフィアンだけで、その相互差異だけに裏打ちされた寄る辺ない象徴界の働きだけ。ただそこに実在するのは私が”私”と”あなた”を志向する意志だけ。
昔はそれでも上手く機能していたのにな、と考えるとなんだか悲しくなってくる。気づけばいつも相手の自分に対するイメージを気にしている。それはなぜなのかと考える。きっと私が求めているものは安定で、私があなたに求めているのは私の表象する”私”と、あなたの表象する”私”が一致することなんだからだと思う。なんとなく相手のことが気になるとき、それはこんな私のアイデンティティに関わる不安感であることがしばしばである。

本源的なのは、自分の自分に対するイメージが確定していないこと。どうに相手に思われたいかがそもそも確定していないなら、二番目以降の不安定はずっと不安定なままであろうと思う。さて、どうして自分は確定した”私の表象”を失ってしまったのか。それはとても明白な理由で、一生治らないと言われたトゥレット症候群とそれに併発した両極性障害がそれまでの確固とした”私”を奪ったからに他ならない。私は”私”を一度殺している。あまりに揺らぐ精神状態の二年間は、超越論的主観性による”私”の構築を何度となく失敗させその度に私を絶望させ苦しめた。気づけば私は”私”を失い、彷徨っている。気づけばいつも誰かに肯定的なイメージを持ってもらうことで僅かながらの安定を掴もうと泥濘している。

克服されなければならない。私は私の表象する”私”でなければならない。私はあなたの表象する”私”であってはならない。

かつてそんな”私”を求めて奮闘した応援部はもう私にはなくて、遠くから眺めていることしかできない。爆発した感情の中に現実界の自分を見つけることはもうできない。

”私”があまりに不確実だから、”私”の未来もうまく描けない。とりあえず現在持っている意志を満たし、またそれが枯渇したら新しく意志をすることを繰り替えしていて、現在より先に生きることができない。
せめて、せめてできることといったらなんらかの将来的に価値のある意志を選択して意志することしかできない。しかしそれが果たされるかどうか、それが正しいかどうかはわからない。

とりあえず、この曇天が雨を降らさないことを願いつつ、国立はタリーズに出かけていつものように喫煙席の一番奥で読書でもしたいと思う。